第92回 稲泉連『ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死』
2019.10.1雨の日も里山三昧
稲泉連『ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死』(中央公論、2004年)
歌人の弟が編集した『戦争の歌』(笠間書院、2018年)というアンソロジーがある。この本は、たかだか120ページの薄い本だけれど、中身の密度はかなり濃い。日清・日露から太平洋戦争に至る膨大な「戦争の歌」から代表歌51首が選ばれ、1首ずつについて見開き2ページの中で観賞・解説がまとめられている。歌の選び方や解説の仕方に、読者への配慮が行き届いている。おそらく、相当の時間やエネルギーが注ぎ込まれたはずである。
歌は、社会を映すメディアである。このため、戦争の歌を題材にして、戦時の日本社会を歴史社会学的に分析することはできるし、実際にそうした仕事はある。たしかに、『戦争の歌』でもそのようなアプローチから分析が加えられているが、編者の主題はその先にある。つまり、戦時という社会的磁場の中にあって、個々の歌人たちが表現した文学の力を救い出そうとしている。古い昔の歌を取り上げていても、編者の問題意識は現代的であり、「表現の不自由」が問題とされる今日において、あらためて表現のあり方を問いかける好著である。
私は読了後、この本が短歌のシリーズ企画の1冊に収められていることを残念に思った。企画「コレクション日本歌人選」(全80冊)自体は興味深いものの、この企画で想定されている読者層、つまり短歌の関心層を超えて、広く読まれるべきと思われたからである。そこで本書が刊行された昨年暮れ以降、この本が響きそうな人を選んで差しあげてきた。もっとも俊敏に反応してくださったのは、私の研究仲間である関礼子さん(立教大学)であった。新潟水俣病や福島原発被害などの公害研究で知られる関さんは、『戦争社会学――理論・大衆社会・表象文化』(明石書店、2016年)の編者でもある。関さんは、北海道新聞の書評欄を担当されており、進呈後すぐに2月に取り上げてくださった。その書評は、さすが関さんと唸らされるものであった。
その後も、戦中を生きた表現者の経験から何を受け継ぎ、何を学ぶのか。現代の表現をめぐる社会環境の中で、いかに表現するのかを考えている人びとに、1冊ずつ差し上げてきた。そのような人の1人に、小園弥生さん(横浜市男女共同参画推進協会)がいる。
私が小園さんと初めてお目にかかったのは、ちょうど20年前の1999年だったと思う。当時、私は日産自動車によるNPOラーニング奨学生制度によって、NPO法人まちづくり情報センター・神奈川(通称:アリスセンター)でインターンシップに参加していた。その時手伝うように求められた仕事は、神奈川県内で市民活動をリードしている人・団体・店などを紹介する本を編集することだった。そして、その本を作るための編集委員会のメンバーの中に小園さんがいらっしゃった。編集委員には、市民活動のベテランが多く、また活動分野も平和・環境・人権など多様だったので、私は毎回の編集会議の議論から多くを学んだ。女性のメンバーが多かったので、ジェンダーの問題については皆さん当然のように感度が高かったが、小園さんは、加えてアディクションの問題にも詳しく、また、戦争で亡くなった詩人が遺した詩に音を付けて歌う活動もおこなっていて、ほかの女性メンバーとは異なるユニークさと近しさを感じていた。メンバーの中では若い方だったので、全体の議論をまとめようとするよりも、自らの感性を大事にして発言していたように記憶している。それが、どこか危うげであり、格好いいとも思っていた。
このときの仕事の成果は、2000年に『もっと・もっと・もーっと神奈川!』という本として出版された。この本は、1993年に出た『もっと・もっと神奈川!』の第2弾という意味もあったので、その後も更新していくという話もあったが、立ち消えて今日に到っている。このため、当時の編集委員会のメンバーとは、SNSで繋がって履いても、ほとんど疎遠になっている。その中にあって、小園さんは、NORAの活動拠点「はまどま」の近くにあるフォーラム南太田に勤務されているので、ゆるく繋がっている。
今年の6月、そのお近く同士の関係ゆえに、小園さんから相談事を持ちかけられ、久しぶりにお目にかかることになった。私が小園さんと1対1でじっくり話し合ったのは、おそらくこのときが初めてだったように思う。一度、小園さんが取り組まれている「ガールズ」(生きづらさ、働きづらさに悩む若い女性たち)支援のお話を聞かせていただくために、大学にお招きしたことがあったけれど、そのときはゆっくりと話す時間がなかった。しかしこのときは、ある程度の時間、相談事のほかにお互いの近況なども話すことができ、何気ない対話を楽しんだ。
この日、小園さんは季節の和菓子「水無月」をご用意くださっていたのに対して、私は通常の打合せ程度と考えていたために手ぶらで訪問した。静かに話が盛り上がっていくうちに、何も持参しなかったことが悔やまれたので、帰宅してすぐに『戦争の歌』を送付した。
まもなく、小園さんから、ご自身が制作にかかわった作品など数点をいただいた。その内の1つが本書であった。戦死した詩人とは竹内浩三のことなので、20年前から小園さんを通して名前だけは知っていた。しかし、当時はそれ以上踏み込むこともなく、いつしか、竹内浩三という詩人を忘れていた。
それが、このたび本書をいただいたときには、読んでみようという気持ちになった。理由は3つある。(1) 小園さんと話をしたことで、もっと小園さんを突き動かしているものを理解したいと思ったから。(2) 竹内浩三の詩もまた「戦争の歌」を含んでおり、『戦争の歌』の理解を深めると考えられたから。(3) 戦争を経験していない当時25歳の著者が、どのように戦争と出会い、その先を考えたのかを読むことで、歴史から学ぶという現在の私にとって大事な問いに対して何かヒントを得たかったからである。なお、本書は大宅壮一ノンフィクション賞最年少受賞作であり、著者が竹内浩三を描くとともに、そのプロセスを通して著者自身も描かれているところに特徴がある。
さて、本書はフィリピン・バギオにて23歳で戦死した竹内浩三に関する評伝である。題名の「ぼくもいくさに征くのだけれど」は、出征前の気持ちをうたった詩のタイトルである。彼の詩でもっとも有名な作品は、「骨のうたう」だろう。入隊前に書かれた詩であるのに、経済復興のために戦死者が脇へ置かれていく戦後の社会を怖いくらいに予見している。「愚の旗」は自伝的な詩だが、実際には生きられなかった未来のことも予想して書かれており、彼のユーモラスな特徴がよく表れている。
竹内浩三は「反戦詩人」としてメディアで紹介されることが多いという。しかし、本書で紹介されている代表的な詩や日記を読む限り、そうした印象は受けない。むしろ、文学・芸術を愛し、自由を希求した青年だった。それが、当時の社会状況では、非国民的に映ったこともあっただろう。それでも、戦地に赴けば、忠義を尽くすと考えていた。
著者が竹内浩三に引き寄せられた理由も、ここにあるのだろう。もし、戦時中であっても「反戦」を表現に訴えることのできるような強い人であれば、著者は共感を覚えなかったに違いない。自由でありたいという現代社会に生きる私たちも同じように願うことが、戦時中には非国民扱いされ、戦後は反戦詩人として評価される。それは、竹内浩三が変わったのではなく、社会が変化したからである。だから、社会の影響を除いていけば、竹内浩三という個人に出会うことができる。25歳の著者が23歳で戦死した詩人と時間を超えて出会い、彼の人間的な魅力に惹かれたからこそ、このノンフィクション作品を書くことができた。ここに、別次元のまったく異なる世界にいると思われる人と出会う1つの方法が示されている。
本書を読み終えて、この本を読んだ理由3つのうち、(2)(3)については満足できた。(1)については、あらためて小園さんと、竹内浩三をめぐって対話したいと思った。
まだ、小園さんからいただいた作品を全部は読み終えていないので、次に会うまでに読んでおこう。
(松村正治)