雨の日も里山三昧

第17回 『現代社会の理論』(見田宗介)

2010.4.1
雨の日も里山三昧
  • 見田宗介『現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来』(岩波書店、1996年)

新しい年度が始まりました。大学で働いているので、元日に新しい年を迎えるよりも年度が切り替わるこの時期に、これからの1年をどうやって生きようかと考えることが多いです。社会の変化がとても早いので、そのスピードに遅れまいと、先を急いで考えることも必要でしょう。しかし、ここでは過去を振り返って、自分の原点を見つめ直してみます。

私には、中学・高校とあまり良い思い出がありません。思春期には普通のことでしょうが、思い悩むことが多く、力いっぱいに生きているという感覚がありませんでした。考えるべきことがたくさんあり、それをひとりでは抱えきれないのに、自分だけで考えて空回りしていたような気がします。ほかの人とコミュニケーションを交わすという方法を持ち合わせておらず、きわめて内省的でした。友だちがいなかったわけではないのですが、有名大学への進学を目ざす東京の男子校の中で、微妙な孤立感を覚えつつ過ごしていました。
一浪して大学に入ると、中高の頃の息苦しさからは自然と解放されました。同期といっても同じ年ばかりではなく(現役と浪人が半々くらいでした)、また日本全国から学生が集まっていました。それまでよりも多様性が各段に高い社会に入り、気分が外へ向くようになったのでしょう。苗字が変わって、気分を一新できたのも良かったのだと思います。
その頃の私は、いわゆる理系タイプで、数学と数式で解ける物理・化学以外はほとんど興味・関心を持てないでいました。しかし、大学1-2年生の間は、一般教養を身につけるために、いやでも人文・社会科学の講義科目をいくつか履修しなければいけません。仕方なく、政治学や社会思想史や人類学などを受講しました。余談ですが、この間まで厚労相だった舛添さんが担当する政治学を履修したのに、入学して間もなく(梅雨の前だったと思いますが)、急に辞めてしまったのには唖然としました。

さて、当時、見田さんは一般教養科目の社会学を担当していました。とても履修したかったのですが、たしか必修科目と時間が重なっていたためにできませんでした。履修したかった理由は、社会学に関心を持っていたからではありません。社会学のことは本当に何も知らなかったですから、学問自体に対しては興味も持ちようがなかったのです。そうではなくて、母から薦められて興味を持ったのです。ただし、母は社会学という学問を学ぶように薦めたわけではありませんでした。母は昔の見田さんを個人的に知っていたので、今どんな感じなのか私から聞きたかったのです。
母によれば、見田さんは学生時代に、ときどき母方の実家を訪ねていました。祖父が自宅で開いていた研究会に顔を出していたようです。そして、母は中学の友だち数人とともに、見田さんから勉強を習うこともあったようです。これは、あまり長くは続かなかったらしいのですが、母の記憶には強く残っていました。だから、私が見田さんの授業を受けられるかもしれないと知って、その授業を強く薦めたのでした。母から、何度かこの昔話を聞いたために、いつしか私も見田さん個人に対して興味を持つようになっていました。

大学を卒業して働いた会社は、おもに国・地方自治体、外郭団体から事業を受託する環境系のコンサルタントでした。環境問題にかかわる仕事に就きたいと思っていた私は、(今ならば環境NPOという選択肢もありますが)それ以外の選択肢をあまり考えずに、簡単に決めた職場でした。受注する事業は、ほとんど年度単位で区切られるので、2-3月の年度末が極端な繁忙期で、年度が切り替わって5月頃になってようやく落ち着くというスケジュールで動いていました。
年度末は、休日返上で朝から晩までデータの分析と報告書の執筆に取りかかります。その上、この頃は並行して芝居もやっていたので、いくら時間があっても足りませんでした。どうやって稽古へ行く時間を捻出していたのか、今思うと不思議です。睡眠時間を削ってもやれる体力があったのでしょう。その代わりに、それ以外の時間は皆無で、通勤電車の中では寝るばかりで、何もできませんでした。
私は花粉症なので、東京では3-4月を気持ち良く過ごすことができません。それでも、ゴールデン・ウィークを迎える頃には症状が治まり、過ごしやすくなった季節を楽しめるようになります。この頃には、年度末までの仕事も終わりが見えるようになり、気持ちがぐんと軽くなったものです。
1つ年下の弟が読書家であるのに対し、私は活字よりも数式が好きで、学生時代まで読書が好きではありませんでした。それが、会社で働くようになり、年度末を越えて仕事の山が過ぎると、痛切に本を読みたくなりました。その時期まで、目を通す活字といえば仕事絡みのものばかりになるので、大げさに言うと、そこから解放され、ようやく自分の楽しみ・成長のために本を読める自由が得られたという感じでした。だから、5月から12月頃までは、時間の合間を見つけて本を読むようになりました。
それでも、会社員の1-2年目は、仕事をこなすために必要な知の体系を把握するために読んでいた本が多かったです。分野で言えば、生態学、地理学、都市計画・地域計画、統計学、経済学などです。やはり、理系的な本が中心でした。しかし、3年目を迎えた頃からは、文系的な本を読むようになりました。社会学、文化人類学、民俗学、哲学などの軽い本を中心に読んでいました。一般向けに書かれたものなので、それぞれの学問の一端を垣間見るだけでしたが、それでも十分に面白いと感じました。芝居にはまった学生の頃には、広大な知の世界にほとんど触れていなかったため、知らなかった学問を勉強したいとナイーブに思ったのです。そして次第に、大学院に入り直して、環境経済学か環境社会学を学び直そうと考えるようになっていきました。

会社員時代の4年目、心は会社から離れ始めていましたが、まだ退職を決心できないでいました。仕事の性格上、年度末までの仕事をやり遂げないで辞めると、周りの社員に多大な迷惑を掛けてしまいます。だから、退職するならば5月だと決めていました。すると、3か月前までには上司に辞意を伝える必要があります。辞めると決断するなら、年末がタイムリミットだと思っていました。
その年の秋、会社帰りにいつものように書店へ立ち寄ると、平積みされていた本の表紙から「見田宗介」という名前が飛び込んできました。その本は、学生時代に出会いそこねた見田さんの新刊『現代社会の理論』でした。さっそく、手にとって目次を眺めると、『沈黙の春』や水俣などの環境問題が取り上げられていたので、これはすぐに読むべきだと直感しました。後にも先にも、この瞬間ほど、私が本に引き寄せられたことはありません。
見田さんの著作を読むのは、そのときが初めてでした。まず、何よりも驚いたのは、社会を分析し、記述するときの言葉の使い方でした。さまざまな言葉が引き出しの中にしまってあるのでしょう、それを吟味しながら適切に取り出して、これしかないという表現をしてしまう。私には表せないことをきちんと言葉にして、それを私にわかる程度のやさしさで記してしまう。200ページに満たない新書版であるにもかかわらず、考え抜かれた構成と巧みな文章力は圧巻でした。もちろん、ただ文章が巧みであるだけではありません。情報化/消費化という、これまで環境問題や貧困問題を考える上では否定的に捉えがちだった現代社会の展開に対して、これを転回して肯定的に捉えてしまう。この視点のユニークさは斬新でした。社会学的な思考の魅力にすっかり参ってしまったのです。
私は、幼少の頃から公平や公正に敏感で、この性格から環境問題にかかわろうと思うようになったと考えています。しかし、環境問題には、これに付随する嫌な面がありました。それは、環境教育として、ごみを分別しようとか、自然を大切にといった標語を掲げることであり、それを守れない人をただそうとする正義が嫌いでした。この正義が社会に充満すると、価値観の多様性が失われ、息苦しくなるように感じられたからです。
なんとか、自由を手放さずに環境を守れないものだろうか。こう考えてはいたものの、どれもすっきりする思考には到達できていませんでした。前年に刊行されていた鬼頭秀一さんの『自然保護を問いなおす』(筑摩書房、1996年)には、この課題を解くヒントが詰まっていました。そして、『現代社会の理論』は、このジレンマの乗り越え方を明確に指し示してくれました。鬼頭さんから肩を押されて歩き始めた私に対して、今いる場所から走り出そうという勇気を与えてくれました。この本との出会いは、私の逡巡を一気に吹き飛ばしてしまったのです。

この本の「あとがき」で見田さんは、続編を出す構想を述べていました。せっかちな私は、いつ出るのかと心待ちにしていましたが、なかなか出版されないので諦めていました。ところが、10年後に続編に当たる『社会学入門』(岩波書店、2006年)が刊行されました。さっそく読みましたが、かつてのようには心が動かされませんでした。これは、知識を得たことで鈍化した感受性のせいなのかもしれません。
私よりも年上の方には見田さんを好きだという方が多く、著作に対して私のような出会いをされた方もおおぜいいらっしゃると思います。どの本も魅力的ですが、1つひとつ取り上げていくときりがないので、最近復刊された『まなざしの地獄』(河出書房新社、2008年)は面白かったと付け加えるにとどめます。

いまだに私は見田さんとお目にかかったことがありません。ときどき、人づてに見田さんが登壇される講演会などの情報が届き、今度こそは参加しようと思うのですが、いつも所用と重なってしまいます。そういう運命なのでしょうか。

(松村正治)

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