雨の日も里山三昧

第16回 『森の健康診断』(蔵治光一郎ほか編)

2010.3.1
雨の日も里山三昧

2月中旬、私は依頼原稿を書くための取材で名古屋へ行きました。今年10月に生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が名古屋で開催されるので、それを見越して生物多様性の保全に関する記事を書くという仕事です。大学の教員になる前は、ときどきこういう仕事を引き受けていたのですが、最近はあまり余裕がないので、頼まれても断るようにしていました。それなのに、この仕事を引き受けたのは、かねてからお会いする機会をうかがっていた丹羽健司さん――今回取り上げた本の編著者の1人――に取材できるからでした。はたして、実際にお話をうかがってみると、なんともワクワクする時間を過ごすことができました。

この仕事が舞い込んできたきっかけは、『森、里、川、海をつなぐ自然再生―全国13事例が語るもの』(自然再生を推進する市民団体連絡会編、2005年)という本を、全国の環境活動家たちと一緒につくったことでした。この本の特徴は、実際に自然再生に取り組んでいる人びとが全国の先進的な事例を取材し、その人の記名で記事を書いた点にありました。だから、本づくりにかかわった者からすると、先進事例の仕組みや工夫といった情報よりも、取材を通して得られたことの方が大事だったように思います。
先進的と言われている事例であっても、表舞台のまぶしい光の面だけではなく、裏方の苦心に満ちた影の部分もあります。実際に活動している人は、普通ならばネガティブに捉えがちな陰の部分を、それも含めて丸ごと抱きしめたくなるような共感を持って聞くことができます。また、フィールドの異なる活動を深く知ることは、同時に自らが抱えている現場のこと、日々一緒に活動している仲間たちのことを振り返る機会ともなり、いつしか勇気づけられ、希望を持つことができるものです。私の場合、好きこのんで市民活動を続けているのですが、困難に直面すると気持ちが萎えるようなときもあります。だから、取材や調査などの名目で出会いたかった人から話を聞き、「ここでも素敵な人が丁寧な仕事をされている。同志として希望を持って前へ進もう」と思えることは重要なのです。
現場を持つ者が取材する場合、ただ質問に対して応えてもらうだけではなく、取材者が自らの活動についても説明し、互いを比較しながら意見を述べあうような時間も多くなります。だから、取材する側だけではなく取材される側にも反作用が働き、おそらく仲間としての共感と希望が得られるのではないかと思います。つまり、活動をしている人が取材し、また取材されるときには、取材する/されるという関係性を超えていく可能性があるのです。だから、この本づくりは、現場を持って活動している人たちを緩やかにつなぐ役割も担っていたのです。

今回、丹羽さんに取材しませんかと声を掛けてくださったのは、この本づくりのときに事務局の仕事をされていた方からでした。丹羽さんは、矢作川水系森林ボランティア協議会(矢森協)の代表で、全国から注目されている「森の健康診断」の仕掛け人です。仕事の依頼元からは、「森の健康診断」について取材するようにと言われていました。もちろん、私も興味を持っていましたが、「森の健康診断」の仕組みや工夫を客観的に紹介するのは自分の役目ではないだろうと思いました。なぜなら、そうした情報はすでにウェブサイト「森の健康診断」に記載されていますし、今回取り上げた本『森の健康診断』には、丹羽さんをはじめとした当事者によって臨場感たっぷりに描かれているからです。それならば、私が取材する意味はどこにあるのでしょうか。きっと、丹羽さんとの出会いを通して感じたこと、考えたことを、自らの活動に生かしたり、ほかの人に伝えていったりすることだろうと思っています。このコラムも、そのための場として利用しています。

丹羽さんへの取材のなかで、まず驚いたのは、活動している人がほかのフィールドへ行き、キーパーソンから話を聞くことの意義を私が話したときに、すぐさま意図を理解して、その重要性を指摘されたことです。いや、それだけではなく、実際に「伊勢・三河湾流域ネットワーク」のなかで、お互いを「知る」という意味を深く掘り下げて、海の人が山・里へ行き、山の人が川・海を訪ねるような交流調査を実践されていることに驚嘆しました。私は、この話をうかがいながら、今月からNORAが始めた横浜市との協働事業「市民による「森を知る・触れ合う・育む」学びあいネットワーク構築事業」について考えました。以前、横浜には「よこはまの森フォーラム」というネットワーク組織があり、一時は全国的にもよく知られるほど活発に活動していましたが、すでに解散しています。そこで、あらためて横浜市内の森づくり団体が手をつなぎ、ばらばらの点ではなくて、点と点をつながりのある線として、さらに面として拡げていきたいと願い、この事業を始めました。しかし、丹羽さんたち「伊勢・三河湾流域ネットワーク」の思想と実践を知り、私たちの事業には川・海の団体が含まれていない点、ネットワークを築く意味について考えが浅かった点などに気づきました。これは、反省点であると考えるよりも、フロンティアを見いだせたと考えるべきなのでしょう。
つぎに、興味深かったのは、研究者や行政との距離感や関係性です。当たり前なことですが、あくまでも対等平等であるべきだと主張されました。これは、言うのは簡単ですが、実行するのは難しいはずです。でも、「森の健康診断」では実現しているようです。一方で、研究者や行政に対して反発しても仕方ないわけで、それぞれの特徴を生かすことが必要という認識もお持ちでした。しかし、それは決まった役割をこなせばよいのではなく、互いを知ることで生まれる友情をもとに、与えられた役割からずれていくこと、それを超えていくことに意義を見いだしていらっしゃいました。
ここにも私は共感しました。丹羽さん自身、東海農政局の行政職員でもあり、「危ない公務員」を自称されています。普通、こういうことを二足のわらじを履くと言いますが、人格をたくみに使い分けているような印象を覚えるので私はこの表現を好みません。市民と行政職員、あるいは市民と研究者でもよいのですが、結局は1人の人間に過ぎないところに、一般的に想定される役割を当てはめれば、それからずれたり、超えていったりするのは当然のように思えるからです。単に当てはめる枠が小さいのだと理解したいのです。
決められた役割を超えて交わり、1+1が2よりも大きくなるためには、どうしたよいのでしょうか。丹羽さんは、効率性を追い求めずに時間をかけて話し合うこと、その場に長くいて同じ空気を吸うことが大事だとお考えでした。だから、毎月の定例会議は、たっぷりと半日かけて、熱く議論を交わしているそうです。対して私は、けっこう会議を短く済ませようとしがちです。もちろん、限られた時間を融通して出席している仲間が多いので、どうしても会議の効率を高める必要はあるのですが、一方で、1人ひとりが十分に意見を述べ、気持ちを表現し、最終的に納得できているかと問われると自信がありません。毎月とは言わないまでも、ときにはじっくりと腑に落ちるまで話し合う場が必要だとあらためて感じました。
丹羽さんは、「民主主義の基本は友情なのだと思っている」とおっしゃいました。そして、実際に「友情に基づいた議論をしている」そうです。私は、ガツーンとやられた気がしました。丹羽さんは、青臭いのかもしれませんが、近しい人を信頼しているのです。私にも、そんなところがあり、不信ベースで責任逃れの手続き論を重視しがちな社会では、浮いてしまうこともあります。だからこそ、あまりにもさらりと友情を説き、それを具現化していることに自信を見せる人と出会えたのは大きなことでした。この言葉を聞いたときは、衝撃を受けるとともに、嬉しくてワクワクしたのです。
私は、しばしば聞き取り調査と称して、さまざまな人から話をうかがうのですが、そのたびに出会いがあり、思うことがあります。「世の中捨てたもんじゃない。」
逆に、このように思えなくなったときには、私はNPO活動と社会学をやめるでしょう。なぜなら、NPOとは市民に支えられた組織であり、社会学とは市民社会によって絶えず問い返される学問だからです。私がこれらに没入できるのは、人びとを信じたいからです。でも、自信があるわけではありません。今の私には、NORAの仲間を思っても、友情や信頼がベースにあると口にするのははばかられます。いつか、妄想ではなく確固たる自信を持って、そんなことを言ってみたいなあと思っています。

このコラムでは、タイトルに本の書名を掲げながらも、ほとんど書評をしないで、著者との出会いなどを書きつづってばかりいますが、今回は、いつも以上にそうなっています。それは、『森の健康診断』という本がつまらないからではありません。いえいえ、むしろ相当に面白く、私はとても好きな本です。でも、あえて本の中身にふれなかったのは、丹羽さんがこうおっしゃったからです。「森の健康診断をやりたいっていう人に対しては、森の健康診断実行委員会に来いと。この議論を聞けと。僕はその一点ですね。本読むのもいいけど、この書生っぽい議論を聞け、恥ずかしくなるような議論を聞けと。段取りの悪さとか色んなものがあるけども、これを聞いてもらうのが一番だと思っている。全部オープン何でもオープンですから。あの空気を吸うというのが一番大事だと思っている。」

今、私はこの空気を吸い、議論を聞きたいと願っています。
書を捨てよ、名古屋へ行こう。

(松村正治)

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