第85回 「声(聲)を聞く/聴く」5作品―保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』ほか

2018.10.1
雨の日も里山三昧

「声(聲)を聞く/聴く」ことについて考える5作品

保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(御茶の水書房、2004年→岩波書店、2018年)
高瀬毅『ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平凡社、2009年→文藝春秋、2013年)
井手明『ダークツーリズム―悲しみの記憶を巡る旅』(幻冬舎、2018年)
山田尚子監督『聲の形』(2016年公開、129分)
ドリアン助川『あん』(ポプラ社、2013年)


先月9月中旬、里山保全活動を安全に進めるための研修を開催した。
講師に志賀壮史さん(グリーンシティ福岡、日本環境保全ボランティアネットワーク)を招き、里山ボランティアの現場リーダーについて深く考えるとともに、安全管理を日頃の活動に落とし込むための意識づけをおこなった。

今回の研修内容は、計画づくり、コミュニケーション、安全管理の3つのパートに分けられた。このうち、計画づくりと安全管理のパートは即効性のある内容が多く含まれていたので、受講者はすぐに現場で活かせることと思う。
一方、コミュニケーションのパートでは、プレゼンテーション、フィードバック、そして「聴くこと」について学んだ。
志賀さんは参加者の声を聴きながら、見事なファシリテーション・グラフィックを展開していくのだが、さまざまな声を一枚のホワイトボードや模造紙の中に描いていく術は真似できるものではない。それでも、志賀さんの真摯に「声を聴く」姿勢から学べることは大きかったように思う。
実際、森づくり・里山保全の現場では、知識や経験の豊富なリーダーの中に、自分から話したがるために聴くことを疎かにしている人が見られる。
ここで聴くべき声とは、発せられる声に限らず、表情や態度などからわかることも含めてであるが、そうした声を受け止める感度(センス)を持つことは、人びとをリードしていくときに必須であると思う。

そこで、今回は「声(聲)を聞く/聴く」ことについて考える5作品をピックアップした。
なお、同様の関心から、今年1月に大門正克『語る歴史、聞く歴史―オーラル・ヒストリーの現場から』(岩波新書、2017年)を取り上げたし、昨年3月に取り上げた宮内泰介『歩く、見る、聞く 人びとの自然再生』(岩波新書、2017年)でも「聞く」ことについては触れている。


保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(御茶の水書房、2004年→岩波書店、2018年)

アボリジニ社会に入り、参与観察したフィールドワーカーは数多くいるだろう。
彼/彼女らは、インフォーマントから話を聞き、それを書き留めた。
たとえば、キャプテン・クックがダーウィン湾で先住民を殺戮したことを(しかし、そのような史実は存在しない)。
たとえば、1924年の洪水が伝説上とされる虹蛇によって引き起こされたことを。

普通、人類学者はこうした話を「神話」として受け止める。
しかし、歴史学者を自認する著者は、これを「歴史」として捉えようとする。
文化相対主義の立場から「神話」に理解を示す一方で、客観性・史実性に支えられた実証史学は「神話」と「歴史」を峻別して、「歴史」(the history)の単一性を死守してきた。
本書は、そこにいら立ちを隠さない著者が、アボリジニの歴史実践をともに体験することを通し、「歴史」とは何かを根源的に問い直した問題作である。
「歴史は楽しくなくちゃならない」と主張する著者の文章は、全編を通して非常に明快でユーモアにあふれている。
また、本書の構成は、歴史学の批判的検討、アボリジニの聞き書き・対話のほか、著者の研究に対する賛否を含めた評価、批判に対する応答なども含み、学術書とは思えないほどサービス精神が旺盛で、ユニークなものとなっている(もともと英語で書かれた博士論文がもとになっている)。

副題にもある「歴史実践」は、本書の重要なキーワードであり、魅惑的な用語だ。
著者にいろいろと語って聞かせるアボリジニの長老たちは、一見すると暇そうにしている。
しかし、何もしていないのではなく、世界に注意を向けているのだという。
だから、身の回りで起こっていることに対して、静かに注意深くあるのだ。
こうした身体的な技法は、過去に注意を向け、大地から歴史を感じ、歴史に触れるためには、すなわち、歴史実践をおこなうために重要であるという。
歴史家による歴史を書くという実践以上に、アボリジニの長老たちは日常的に歴史実践をおこなっている。

オーラル・ヒストリーとは、従来の歴史学があまり扱ってこなかった口述データを取り入れることで、その穴を埋める補完的な役割を担うのか、それとも多様な声を聞くことから、歴史の多様性を開く役割を担うのか。歴史の多様性を認めるとした場合、歴史修正主義は許されるのか。
本書の問いはシンプルであるために、多くのことを考えさせられる。


今年、私は8月9日に長崎にいた。
グテレス事務総長が平和祈念式典に出席したので話題になったが、私はこの式典の近くで開かれていた長崎大学の原爆犠牲者慰霊祭に参加した。
映画『母と暮らせば』(2018年10月、こまつ座により舞台化)のように、旧長崎医大は被曝して壊滅、教職員・学生・看護婦など850余名が犠牲となった。
キャンパス内には、あまり人が立ち入らないような場所に慰霊碑が建っているほか、現在の裏門(旧医科大正門)など、いくつかの被曝遺構が残っている。

慰霊祭が始まる前の時間を利用して、こうした遺構を巡った。
近くに説明書きはあるけれども、それがただ置かれていた。
ここから何を感じ取れるのか。どのような声を「聞く」のか。
自分の感性が試された。
一緒に回ってくれた友人と比べ、おのれの感度の鈍さを自覚した。
こうした被曝遺構は、人びとの歴史実践を促しているのだろうか。

広島には原爆の惨劇を象徴する原爆ドームがあるのに対して、長崎にはこれに匹敵するような原爆遺構は存在しない。
だから、余計にただ置かれている遺構のことが気になった。

本書は、もし保存されていれば、原爆ドームと同様に原爆被災のシンボルとなったであろう浦上天主堂がなぜ撤去されたのかを追ったノンフクションである。
当初は保存に積極的だった長崎市長が、なぜ翻意して撤去することに決めたのか。
本書を読んでも、その疑問はクリアになるわけではない。
それでも、事実を丁寧に積み上げているので、著者の推測するストーリーがかなり確からしいことはわかる。そのキーワードは、キリスト教、アメリカ、姉妹都市、となるだろう。

私は平凡社版を読んだのだが、文春文庫版には東日本大震災の遺構撤去をめぐる補記が含まれているらしい。
戦跡やさまざまな遺構について考える際に、あるいはもっと広く、後世に何を残すべきなのかを考える際に、本書から学べることは大きいだろう。


井手明『ダークツーリズム―悲しみの記憶を巡る旅』(幻冬舎、2018年)

私は旅行に出かけるとき、戦跡、鉱山遺跡、廃村跡などを訪ねることが多い。
こうした訪問は、最近では「ダークツーリズム」と言われる。
その土地に生きた人びとのことを感じたいから、霊魂を信じているわけではないけれど、魂のようなものが集まるように思うところを訪ねている。

本書は、ダークツーリズムの入門書という位置づけなのであろうが、この分野の研究について書かれている内容は少ない。
ダークツーリズムについては、「戦争や災害をはじめとする人類の悲しみの記憶を巡る旅」とあっさりと定義づけられており、関連する議論はほとんど言及されていない。
残りは、おもに日本の代表的なダークツーリズムポイントが紹介されているだけだ。
ダークツーリズムのガイドブックと言った方がよいだろう。
しかも、悲しみの記憶にふれているのに、調べればわかる程度の史実しか書かれていない。
著者の感度の問題か、筆力の問題かわからないが、重要なテーマであるのにもったいない。

人びとの悲しみの記憶を巡ることの意味とは、何だろうか。
私がダークツーリズムに強い関心があるのは、人間としての自分の感度が試されるからである。
土地を訪ね、この世界にいない人を想うとき、いったい何を感じるのだろう。
何を「聞く」のであろうか。
それは行ってみないとわからない。
だから、私は自分を試しにそこへ行く。


山田尚子監督『聲の形』(2016年公開、129分)

先日、テレビで放映されていたこの映画を見ようと思ったのは、この春卒業したゼミ生に聴覚に障がいのある学生がいたからである。
彼女が在籍していた2年間のゼミでは、聴覚障がい者とともに学ぶことの難しさ、面白さ、楽しさを否応なく体感した。

この映画は、主人公の小学生時代に、聴覚障がい者が同じクラスに転校してきたところから始まる。
障がいを扱う作品の場合、障がいの理解に向けた啓発的な内容になりやすい。
しかし、この映画では、障がい者を差別してはいけないということを、私たちが理解しているのと同様に、登場人物たちも十分に理解している。
だからかえって、正しいことを正しくおこなうことが難しくなっている。

現代社会に生きる私たちは、自分がどのような位置にいるのを俯瞰する。
その視点からは、さまざまな行為が、何のためにおこなうのか、見えすぎてしまう。
人びとは、その計算が露骨に見えることを嫌う。
特に疑いなく正しいことを、正しくおこなうとき、そこに計算高さを訝しむ。

障がいを持つ人は、本人の意志とかかわりなく、正しさをめぐる強力な地場を周囲に作り出す。
このために、その人の周りでは、このような計算をめぐる猜疑の視線が飛び交う。
人として人と繋がりたいと思う自然な気持ちでさえ、周囲はそこに計算を見てしまう。
この映画では、こうした障がい者の周りで起こるコミュニケーション上の問題がストレートに扱われている。

印象深かった場面を1つ挙げると、聴覚障がい者の声を周りが「聞く」ようすべきなのは当然として、同様に、障がい者もまた周囲の人びとの声を「聞く」ようにすべきであること。この対等性の必要を登場人物に語らせているところであった。
障がい者は、自分から周りにどうして欲しいか伝えるようにと言われて育ってきた。
それはとても大事なことであるが、伝えることとともに「聞く」ことも大事だと思う。
耳で聞くことが難しくても、相手の声を「聞く」ように努めること。
そのバランスが悪いと感じられたとき、周囲にストレスがたまっていく。自分のことを一方的に話して、人の話を聞かない人にイライラさせられるように。

私のゼミでも、障がい学生を除くほとんど全ての学生が、ほかのゼミに移りたいと言ってきたことがある。
ふりかえると、私が障がい学生への対応を考えるあまり、ほかの学生たちのストレスを見過ごしていたことによる問題だった。
このときは、かなり時間をかけて話し合ってゼミの崩壊は免れたが、当の障がい学生にとっては、さぞ居たたまれない気持ちだっただろう。
「障がい」というだけで、慣れていないと、心も体も強ばってしまう。
このような目に見えにくいストレスによって、人間関係に狂いが生じるのである。

映画の世界観、物語に感心したわけではないけれど、いろいろと考える材料を提供してくれたので、印象深い作品となった。
オープニングにThe Whoの「My Generation」が使われていたのは、いいセンスだと思った。


ドリアン助川『あん』(ポプラ社、2013年)

この小説を原作とした河瀬直美監督の映画『あん』(2015年)を私は見ていない。
先日、映画で主演を務めた樹木希林さんが亡くなったことから、急にその名演技を観たいと思って、その前に原作から読もうと思い、急いで読んだばかりである。

さしてやる気もなく、どら焼きを作ってきた徳太郎の前に、バイトで雇って欲しいという徳江が現れた。
徳太郎は適当にあしらおうとするが、徳江のあんを食べて、その美味しさに驚き、徳江はどら焼き作りを手伝い始める。

あらすじの紹介は、この冒頭の部分だけにする。
徳江はあんを作るときに、小豆に思い切り顔を近づける。
それを徳太郎は不思議に眺めていたが、徳江がそうするのは小豆の声を「聞く」ためであった。

徳江は、言葉をもたないものたちの言葉に耳を澄ますことを、「聞く」と呼ぶ。
小豆の顔色を見ること、小豆の言葉を受け入れること。どんな風に吹かれて小豆がやってきたのか、旅の話を聞いてあげる。
徳江は、この世にあるものすべては言葉を持っていると信じている。生きているものはもちろん、日射しや風に対してでさえ、耳をすますことができるという。

徳江は絶望的な状況に置かれ、生きる意味を探る中から、このように世界を感じ、「聞く」ことのできる境地に達した。
徳江がどのような人生を辿ってきたのか、その過酷さががうかがえる。

聞く/聴くこと。
多くの声を聞き分けるには、感性が求められる。そうした感性を私は磨きたい。
聞く/聴くこと。
受動的に思われるこの行為こそ、もっとも能動性が求められるのではないだろうか。

(松村正治)

雨の日も里山三昧