寄り道35 Mの当事者研究
2018.8.1雨の日も里山三昧
今回はコラムを書く時間が取れなかったので、現在執筆中の論文草稿の一部を掲載することで、お茶を濁したい。
この論文は、いま環境運動研究が問うべきことについて考えるというもので、このコラムの「寄り道」で断片的に書いてきた個人史を、同時代の社会史や学問的動向を織り交ぜながら記し、論点を示したり掘り下げたりするという内容である。
いわば環境社会学を学びながら環境運動を実践している私(M)の当事者研究という面が強く、学術的に意味のあるものに仕上げられるのかわからない冒険的な作品である。
<以下、草稿を引用>
1969年、Mは世田谷区で生まれ、3歳~20歳まで東京郊外の町田市で暮らしていた。自宅は粗末な二軒長屋の都営住宅で、隣近所には、ひとり親家庭や年金暮らしの高齢者が多く、高級住宅地が隣接していたので、所得水準の格差が際立っていた。
幼少期に当たる1970~80年代前半、周辺では大規模団地の建設など宅地開発が進み、ときどきカブトムシやザリガニなどを捕りに出かけた雑木林や谷戸は消失した。以前はそこに、腰の曲がった農家のお年寄り、悪臭を放つ養鶏場、緊張感を与える「マムシ注意」の看板、捨てられた成人指定の雑誌など、快適な都市生活から排除されたものが見られた。しかし、小学高学年になり、地元で外遊びをしないようになって10年もしないうちに、これらはMの気づかぬうちに一掃された。
10代の頃のMは、家庭不和という生活上の問題を抱え、この等身大の問題を自力では解決できず、その鬱屈を表現するすべも持っていなかった。その分、内に溜まった感情やエネルギーは外側の社会問題へと向かい、次第に大きな環境問題への関心を強めていった。
1986年4月26日、高校2年生のとき、チェルノブイリ原発事故が起こり、日本でも反原発運動が一時的にかなり盛り上がった。それまでは、理数系の科目が得意だったので、常温超伝導など当時夢想されていた科学技術の開発に取り組みたいと漠然に考えていた。しかし、この過酷事故を契機として、科学技術に対する批判的な議論に共感するようになった。たとえば、高木仁三郎、宇井純、槌田敦、宇沢弘文などを読むようになり、原子力情報資料センターの会員になったり、エントロピー学会の情報を集めたりするようになった。
しかし、Mは知的に早熟だったわけではない。この頃、政治からサブカルチャーまで幅広いテーマを扱い、若者に人気があったムック『別冊宝島』がある。自分を持て余していたMは、現代思想、原発問題、地球環境問題、東洋体育、小劇場などの特集に刺激を受けて、生きづらさから解放されるのをじっと待っていた。
1989年、Mは一浪して大学に入った。生活上の問題は両親の離婚により区切りがつき、苗字が変わったこともあって、入学を機に新しい環境に身を置いて、自分を試したいと思った。いくつか試行錯誤した末に、野田秀樹や鴻上尚史らによる小劇場ブームに押されて、小さな劇団に入り、芝居の世界で自身の表現について考え始めた。
大学入学後も、環境問題に関心を持ち続けていたが、関連するサークルや研究会に所属して、この問題を真正面から取り上げて考えようとは思わなかった。たとえば、地球環境問題は深刻であり、今後、ますますひどくなっていくと大変だから、生活を切り詰めていこうと訴えるような方法では、人びとの行動を内発的に変えることができず、うまくいかないと考えていた。
このように考えていた背景の1つに、Mの家族史があった。Mの祖父はマルクス主義を奉じ、毛沢東を支持して中国を理想化したまま、1977年に亡くなっていた。その後、文化大革命の主導者たち四人組が逮捕されたり、旧満州から残留日本人孤児たちが貧しい身なりで帰国したりしていたので、中国が良いとは思っていなかった。そして、1989年に天安門事件が発生したのを見て、当時大学1年生だったMは、「祖父が生きていたら、どう感じただろうか」と自問し、現実を見て考えを改めただろうと思う半面、主義主張にこだわるあまりに、この事件を正当化したかもしれないとも考えた。祖父は頭は良かったのかしれないが、その知識を社会に活かすという点では問題が大きかった。もちろん、このように後知恵で祖父を評価するのは公平ではない。しかし、何が世の中のためになるのかは、その時は分からない。後になってしかわからないことがあるという反省を抱えていたので、エリートの善意や正義感が大衆を不幸にすることに敏感であった。
Mが高校生から大学学部生の頃、すなわち、1980年代後半から90年代初頭は、ゴルバチョフ時代のソ連でペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が進められ、1998年のベルリンの壁崩壊、1991年のソ連解体へと、東西冷戦は終結に向かっていた。資本主義か社会主義かという問いに歴史的な答えが出され、その代わりに東西諸国がともに取り組むべき課題として登場したのが地球環境問題であった。1992年にリオ・デ・ジャネイロで開催された地球サミットに向けて、世界中の環境問題が現地から報告され(石, 1988)、地球環境問題がグローバル・アジェンダとして主題化していった。『平成2年版 環境白書』では、「地球にやさしい足元からの行動に向けて」をテーマとして、地球温暖化、オゾン層破壊、酸性雨、熱帯林減少、砂漠化、生物多様性の減少、海洋汚染、有害廃棄物の越境移動、開発途上国の環境汚染といった地球環境上の問題群が説明された。1993年には環境基本法が制定されて、公害対策基本法は廃止された。1994年には最初の環境基本計画が策定され、環境政策の長期的な目標として、「循環」「共生」「参加」「国際的取組」が掲げられた。
Mは学部で地理学を専攻したが、その理由は「公害から環境問題へ」という流れの中で、地理学が自然環境を扱う総合科学となりうる学問として期待したからであった。所属した講座では砂漠化防止のための緑化を研究している教員もいたが、学生にはそうした応用よりも基礎的な調査研究を勧めていた。その頃、同じ講座を卒業して緑地学に専攻を移していたOBが景観生態学(landscape ecology)を紹介していたので、それが地球環境問題時代における地理学的な研究のように感じられた。
ただいずれにせよ、学生時代のMには、問題があまりに大きすぎて、どこから取り組んでよいのかわからなかった。当時、地球環境問題について語るときに流行していた“Think Globally, Act Locally”というキャッチフレーズに納得して、地域の環境問題の解決に貢献したいと考え、1993年に学部を卒業し、民間の環境コンサルタント会社 に就職した。
会社員時代には、環境アセスメント、環境基本計画、ビオトープ、ロードキル、環境教育、河川景観の調査・計画など、多様な受託事業に関わった。また、そうした事業を通して、景観生態学、GIS、保全生態学、環境心理学、環境経済学、環境社会学、市民参加論、まちづくり論などに触れた。
1995年、阪神淡路大震災が起こり、多くのボランティアが被災地に駆け付け、のちにこの年は「ボランティア元年」と呼ばれた。また、1997年にはナホトカ号重油流出事故が発生し、このときも多くのボランティアが駆け付け、環境保全においてもボランティア活動の役割が認められた。同年、河川法が改正され、目的は従来の治水(旧河川法)に利水(新河川法)、そして環境保護(97年改正河川法)を加わり、また、「住民対話」と「環境重視」1997年の改正で、「環境保全」「地域住民の意見の反映」の観点が盛り込まれた 。
1998年、こうした市民による主体的な活動を促すために、特定非営利活動促進法(NPO法)が成立した。このように1990年代は「環境の時代」「市民の時代」であったと言えよう。
Mが所属していた劇団は1995年に解散し、コンサルタントと芝居とのバランスは失われた。その頃には、仕事をこなしていく自信は付いてきたが、環境問題について考える基本的な構えが、自分の中に備わっていないと思うようになっていた。生き方の軸がはっきりしていなかったので、仕事をしていても十分な手応えを感じられなかった。
コンサルタント時代に、しっくりこなかったのが第三者的な自分の立場であった。たとえば、道路建設にともなう自然への影響を調べるように委託された仕事があった。調査の結果、オオタカ、ゲンジボタル、トウキョウサンショウウオなど、里山生態系を構成する貴重な生き物に影響を及ぼしかねないとわかった。この場合、どのように希少種を守るのかという保全策よりも、なぜこの道路をここに通す必要があるのかという社会の側の問題に関心があった。しかし、環境アセスメント事業で、こうした案件に関わっても、道路建設を前提とした調査研究になるので、社会の側に切り込むことは無かった。調査データを踏まえて、Mは第三者としての立場から環境保全策を考え、分厚い報告書を作成した。
仕事としてはそれで十分だったが、Mは自分がこだわりたいことを考えずに済ませているような気がしていた。つまり、人が自然を破壊しつつも生活の利便性を上げようとすること、その相克こそを考えたかったのに、生き物について詳しくなるばかりで、人びとがどのような社会に生きたいのか、未来をめざすのかという根本的な問いを放棄しているように感じられた。一年中、自然の中で動植物の調査に携わり、天職のように仕事をしている同僚と比べると、余計に自分の問題関心に応えていく仕事ではないように感じていった。このような社会経験を踏まえて問題関心が明確になり、大学院への進学を目ざすことにした。
<以上、草稿を引用>
この後、どのように学問を学び、環境NPOの代表として実践活動を進めてきたのかを書いていく。
いったい、この論文はどうなるのか、自分に期待したい。
(松村正治)