第66回 『希望の国のエクソダス』(村上龍)

2015.9.1
雨の日も里山三昧

村上龍『希望の国のエクソダス』(文春文庫、2002年)

8月30日(日)、安保関連法案に反対する人びとが国会周辺に、主催者発表で約12万人 、警視庁調べで3万人余りが集まり、大規模な抗議行動がおこなわれた。
同日、全国では少なくとも300か所以上で、一斉行動としてデモや集会が開かれた。
海外メディアからの関心も高く、英国のBBC、ドイツの公共テレビでは、夜のニュースで大きく報じられたという。

この法案を押し通そうとする安倍政権に対して、反対の声を上げる人がこれほどまでに増えたその起点に、SEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy – s)の存在がある。
この学生たちが、毎週金曜日に国会前抗議行動を始めてのは6月上旬であるが、わずか3ヶ月ほどで世界から注目される動きへと広がった。
SEALDsの抗議行動では、デモに初めて参加したという人が多い。
デモに対して拒否感すら覚えていた人たちが、マイクを握っていることもある。
今回のコラムでは、これだけの人びとが声を上げるようになったのは、いったいなぜなのかについて考えたい。

私のゼミ生にSEALDsのメンバーがいるのだが、その学生に言わせると、彼らは「ネトウヨからもサヨクからも激しくディスられている」そうだ。
そのことを聞いて私は思わず「それは良いことだね」と言った。
今の時代、単純化された右や左という思想的立場から、社会を見ることは適切ではない。
どちらも時代錯誤であり、魅力に乏しい。

改憲派の小林節氏が安倍政権に異を唱えて、SEALDs主催の抗議行動でスピーチするのは、右から左へと変節したからではない。
立憲主義を守らないならば、そもそも改憲する必要もなくなる。
憲法を軽視して法案を通そうとするやり方に憤っているのだ。
国会前では、天皇主義者が安倍政権に退陣を要求し、平和主義者が平和国家の象徴として国旗を揚げることもある。
つまり、安倍政権を非難するのは、イデオロギーの問題ではない。
それ以前の問題である。
総選挙で多数を占めたのだから立憲主義を無視してよいという安倍政権の民主主義解釈に対して、それは民主主義ではないと怒っているのだ。

SELADsを、いわゆる「リベラル」の後継者と見なす向きがあるが、そうであれば、ここまで一気に連帯する動きは広がらなかったであろう。
前回のコラムにも書いたことであるが、彼らの「憲法を守れ!」は、従来の護憲派の主張よりも深さがある。
つまり、現行の憲法の良し悪しという問題以前に、立憲主義に基づき、国家は憲法を守らなければいけないはずだと訴えている。
いや、訴えるというようなものではなく、それは、社会のあり方を考えるときに当然わきまえるべきことなのに、なぜそれを無視するのかと問うている。
国の権力者が憲法を無視して平気でいられたら、それは民主国家では無くなって、独裁国家へと連なる道に進むことになりうるので、止めなければいけない。
なぜ、学生の自分たちに、こんな当たり前のことを言わせるのか、と怒っている。

SEALDsは、「憲法を守れ!」「戦争反対!」という従来の「リベラル」が好むコールで盛り上げることもあるが、彼らの抗議の根底から湧き起こるコールは「民主主義って何だ?」「Tell me what democracy looks like?」である。
つまり、民主主義の危機に対する、深いレベルからの問いである。
だから、このコールに対して、「民主主義ってこれだ!」「This is what democracy looks like!」と応える人びとには、集団的自衛権はもちろん個別的自衛権もノーという人から、集団的自衛権はイエスだけれど、その前に憲法を改正せよという人まで非常に幅広い立場がある。
これまでの市民運動では連帯できなかった立場の人びとが、一緒に声を上げられる。
その土台を作ったから、多くの人びとが声を上げたのであろう。
民主主義とは選挙で投票することだけではない。
それ以外の時も必要に応じて声を上げ、1人ひとりが政治の場に、そして社会に伝えようとしなければ守れない。
SEALDsの抗議行動は、このことを気づかせ、民主主義の危機感を広く共有する契機となったのだ。

SEALDsのコールに応えて声を上げていると、この3ヶ月の抗議行動がフラッシュバックする。
7月初旬、石破茂地方創生相が自民党議員をたしなめたときに用いた言葉から「なんか自民党 感じ悪いよね」。
7月中旬、安保関連法案が衆議院で強行採決されるときには「強行採決 絶対反対」。
札幌で「戦争したくなくてふるえる」とデモを始めた19歳の女性が、国会前に来てスピーチしてからは、これも彼らは取り入れ、さらに「強行採決なまらむかつく」もコールするようになった。
8月お盆後、安倍首相が「いいじゃない、それくらい」と野次を飛ばした後には、「どうでもいいなら総理を辞めろ!」というコールが付け加わった。

もちろん、こうしたコールの中には、自分の気持ちとズレるものもある。
しかし、おそらくSELADsは、民主主義を守ろうとしているのだから、多様な立場を尊重することが大事だと考え、それぞれの声を集めて、参加者とともに国会に向かって叫んでいるのだろう。
そのように理解できるので、私は1つひとつのコールに対して、すべて応える。
個人の考えを大事にするところから、民主主義は始まるのだから。

これは、まちづくりのワークショップの手法とも似ているように感じる。
これから、どういうまちにしたいのか、
ワークショップで参加者がアイデアを述べることがある。
そのとき、すぐれたファシリテーターは、参加者1人ひとりの声をすべて書き出し、それを読み上げる。
そうすることで、参加者それぞれは、1人ひとりが大切にされていると感じることができる。
そうした信頼関係がなければ、民主的に社会をつくることはできないだろう。

さて、そろそろ、この本を取り上げた理由を説明しよう。
7月上旬だったと思うが、SEALDsの中心メンバーの奥田さんが、この本の印象的なフレーズを引用して、だいたい次のようなことを話した。

昔、村上龍の『希望の国のエクソダス』を読んだとき、この本に出てくる中学生が、「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。
だが、希望だけがない」と言った気持ちがとてもよくわかった。
生まれてきたのもバブル後で、日本は落ちていくだけだと言われ続けてきた。
でも、最初は10人くらいで始めた抗議行動だったけど、今日、この国会前には15,000人が集まっている。
これは希望だ。
(うろ覚えなので、細かいところには記憶違いがあると思う)

私はこの小説を全然読んだことがなかったが、奥田さんのスピーチがストレートに響いてきたので気になった。
日頃、学生と接しているので、若者が実感しているリアリティを理解したいとも思った。
そこで、尊敬すべき友人に話したところ、その人の愛読書でもあると言うので、読んでみた。

Amazonの商品説明には次のように書かれている。

2002年、失業率は7%を超え、円が150円まで下落した日本経済を背景に、パキスタンで地雷処理に従事する16歳の少年「ナマムギ」の存在を引き金にして、日本の中学生80万人がいっせいに不登校を始める。彼らのネットワーク「ASUNARO」は、ベルギーのニュース配信会社と組んで巨額の資金を手にし、国際金融資本と闘い、やがて北海道で地域通貨を発行するまでに成長していく。

話の展開や描き方については、あまり感じることがなかったけれど、ところどころに今の時代を予感させる記述があって、ひやっとする。
たとえば、リスクは特定できないと管理できないのに、日本では原発のように発生確率は小さくても、事故が起こるときわめて深刻な影響を及ぼす出来事に対しては、リスク算出をしなくていいことになっている。
こうした傾向は、家庭から国家までのあらゆるレベルで見られ、リスクマネジメントができないから、そこから自由になるしか方法がない、とか。
敗戦後に希望だけがあるという時代よりも、生きていくために必要なものがそろっていて、希望だけがないという時代はまだましだ。しかし、希望だけしかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのか、とか。
いくつか肯きながら、学校に行かない登場人物の言葉を聞き入ることがあった。
若者たちの方が大人たちよりも鋭く危機を感じ取り、このままでは希望がないからと、北海道に集団移住、脱出(エクソダス)して独自の町をつくり、日本からの実質的な独立を果たそうとする。
そうした気分には、私も共感する部分があった。

これを現代に引きつけて考えて、たとえば、現在進行中のプロジェクトについて、若者たちは希望を見いだせるのかとあるのかと問いかけてみたい。
原発を再稼働させることに希望があるのか。
TPPに参加することに希望があるのか。
東京オリンピックを開催することに希望があるのか。
リニア中央新幹線を通すことに希望があるのか。
この本は全体として、ディスコミュニケーションが描かれているのだが、特に不登校の十代の若者たちと大人たちとの間では、残酷なほどコミュニケーションが成立しない。
不登校を続ける中学生の代表が国会で参考人質問される場面で、議員との質疑応答がかみ合わず、「コミュニケーションできません」と顔色を変えずに言う。

SEALDsのメンバーも、安倍政権を支える人びととの間にコミュニケーションの困難を感じている。
これは、それは多くの国民も、同様に感じていることだろう。
一方、SEALDsのメンバーは、抗議行動に際して一人称で自分の言葉でストレートなスピーチを述べるが、これは聴いている者によく伝わる。
すると、こういう疑問が湧いてくる。
コミュニケーションが成立しない社会に、民主主義は成立するのか。
SEALDsが問う「民主主義って何だ?」の奥には、このディスコミュニケーションの問題が横たわっているように思う。

1週間ほど前、SEALDsは、活動理念の基礎をつくり、多くのメンバーがお気に入りに挙げる書籍を15冊選んで公表した。
この本が、その中の1冊に選ばれた。

SEALDsは、私たちの社会に声なき声が充満していたことを露わにした。
それでは、その声なき声とは何なのか。
それを知るためには、SEALDs世代から問われていることに耳を傾けてみるとよい。
そして、この本は、その問われていることを考える際に参考になるはずである。
(松村正治)

雨の日も里山三昧