雨の日も里山三昧

寄り道2 私と里山はドーナツの中と外

2009.7.1
雨の日も里山三昧

私が里山保全にかかわるようになったのはどうしてなのか、
昔の記憶をたどりながら、その理由を探っています。

前回のコラムでは、子どもの頃に育った地域の環境について書きました。
私が育ったコミュニティは、高級の住宅にぐるりと囲まれており、
その間にある差異が気になりだした頃には、
このドーナツの穴から早く抜け出したいと願っていました。

しかし、実際に私立中学に入って都心に通うようになると、
自分の居場所はますます無くなってしまいました。
昔一緒に遊んだ近所の子どもたちとは、
顔を合わせると気まずさを覚える距離ができてしまいました。
一方、学校でも、生意気盛りの同級生たちと、
大切なことを話せないもどかしさを感じていました。
制服を着ていると、他の生徒と同じように見えるので気が楽でしたが、
一皮むくと、父の会社が倒産したり、リストラにあったり、
家庭環境がどうしようもなく冷え込み、結局、離婚したりなど、
自分の家のことを何一つ肯定的に捉えることができませんでした。
結局、10年以上、私は人を家に招くことはありませんでした。
当時の私は、そうした悲劇を宿命と思って、
浮ついた時代の流れに身を任せながら、
ただ時が過ぎてくれるのを待っていたように思います。
家のこと、コミュニティのこと、
自分の足もとに対しては目を向けていなかったのです。

大学に入学すると、名字が変わったこともあり、
新しい自分を始めようという気持ちがありました。
そういうタイミングで小劇場の芝居を見たからでしょうか、
すーっと芝居の世界にはまっていきました。
ほとんど授業に出なかったので出来の悪い学生でしたが、
ようやく自分の足で前進できるようになりました。
また、芝居をしていたときは、
公演初日にようやく脚本ができて、
セリフを覚えるだけでもギリギリの状態で舞台に上がったり、
突然、自分の役に対する不満から蒸発する役者がいたり、
主役が急に入院して代役を務めることになったりと、
本当にいろんなことがあったので、苦境に強くなりました。
卒業後に就職した会社を、
その後の当てもなく5年目に辞めたのですが、
その時は何も怖くありませんでした。

28歳になっていました。
ようやくスタートラインに立った気がしました。
振り返れば、10年くらい回り道をしたように思います。
でも、自分には必要な時間でした。

学生時代に疎かにしていた勉強をしようと大学院に入りました。
会社員の頃とは比べると年収は1/3ほどでしたが、
自由な時間がありました。
平日の昼間、家の近所を散歩してみると、
子ども、女性、高齢者ばかりです。
当たり前のことですが、こういう人びとによって、
普段のコミュニティは支えられているという事実に気づきました。
新鮮な驚きでした。

さらに、ずんずん足を延ばしてみました。
家から高級住宅街を抜けると、里山があるはずでした。
この坂を登り切ると、そこには畑が拡がっているはずだ、
と思って歩くと、そこは住宅地になっていました。
この坂を下りていくと、そこにはぬかるんだ湿地があるはずだ、
と思って歩いていくと、やはりそこも住宅地になっていました。
しかも、家の感じからすると、
だいぶ前からそのように開発されていたようでした。

うかつでした。
なぜ、もっと早く気づかなかったのかと悔しく思いました。
私は、家の近所ではないけれど、少し足を延ばせば、
まだ十分にみどりがあると思っていたのです。
いや、正直に言うと、「みどり」ではなく、
「貧しさ」「古さ」「ひたむきさ」がまだ残っていると思っていたのです。

かつて、私の町の周りは東西南北どこへ行っても、
田畑や雑木林が拡がっていました。
友だちと一緒に自転車を飛ばし、
普段遊び慣れている町を越えると、
カブトムシを取る雑木林や、
ザリガニを釣り、オタマジャクシをすくう谷戸がありました。
一方、そうした里山は、スズメバチやマムシを恐れ、
「チカン注意!」などの看板が立っている場所でもあり、
歓喜と恐怖を同時に体験するところでした。

私は、いつも遊んでいる町とは違う、
よく言えば田園の、悪く言うと田舎くさい場所まで来ると、
いつも、そこで働いている人が気になりました。
茅葺き屋根の家があり、
腰を曲げて農作業に勤しむ年老いたお百姓さんがいました。
家から自転車で15分ほどの距離なのに、
この落差は何だろうと思っていました。
私は、自分のコミュニティと同様の匂いをかぎつけ、
共感と反感がない交ぜになったような気持ちを覚えたのでした。
ドーナツの外側は内側よりも、
さらに時代に遅れて貧しいように見え、
目を背けたくなるとともに、何か声を掛けたくなるような気持ちでした。

それから、約20年が経過し、
子どもの頃、反感を覚え、目を背けたかったものは一掃されました。
木造の二軒長屋だった私の家も、鉄筋コンクリートに建て替えられました。
社会の中に、これらを排除する力があったのでしょう。
私は、その力に棹さすとともに、その非情さを感じて育ちました。
抗おうとしながらも、そのほとんどに挑むこともできませんでした。
そうした個人の経験を社会に向けて役立てることなく、
知らぬ間に近くの里山が消えてしまったことを後悔しました。

それ以降、私は身近な田畑や雑木林のことが、
無性に気になるようになり、何か力になりたいと願うようになりました。
少し調べてみると、自転車で30分程度の距離のあちこちで、
さして政治的な力を持たない人びとが、
地道に、しなやかに、創意工夫を凝らして、
近くにある小さな里山を守ろうと活動していました。
多くは、主婦の方が中心になっている運動で、
その弱いけれども粘り強いパワーに多くを教えられました。
そこから私が勝手に学んだことは、
自分にとって大事な環境は、
まず自分で守らなければいけないということでした。

私が身近な里山をあらためて大事に思うようになったことは、
自分を形づくった家庭やコミュニティとの関係を
あらためて結び直すことと同じだったように思います。
それは、私がこれまでの私を
丸ごと愛することだったのかもしれません。

(松村正治)

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