第75回 『歩く、見る、聞く 人びとの自然再生』(宮内泰介)

2017.3.1
雨の日も里山三昧

宮内泰介, 2017, 『歩く、見る、聞く 人びとの自然再生』岩波新書.

本書の著者、宮内さんとは、研究プロジェクトの代表(宮内さん)と分担者(私)という関係で、長くお世話になっている。
初めてプロジェクトに参加したのが2008年。
それから、この関係が継続しているので、数えると今年で10年目になる。

先日、本書をご恵贈にあずかった。
ここで紹介することで、感謝の気持ちを表すことにしたい。

本書の位置づけは、「人と自然のかかわり」について「社会(科)学の視点」から考えるための入門書となるだろう。キーワードとして挙げられているのは、半栽培、コモンズ、レジティマシー、合意形成、「聞く」。これらを説明するために、オリジナルの研究成果のみならず、関連する研究も適度にレビューされている。随所に、インフォーマントの「語り」が盛り込まれているところにも特徴がある。
本書を読んでいるとき、私は最終講義を聴いているような気分になった(もちろん、宮内さんは定年までしばらく時間があるはずだが)。一般に最終講義では、定年退職される方がご自身の研究を振り返り、研究分野が異なる人にも分かるように説明してくださる。それと同様に、本書を読めば、近年の宮内さんの一連の仕事が見通し良く分かるという内容である。

宮内さんの研究プロジェクトに関わるようになってから、私はあまり宮内さんの著作の熱心な読者ではなくなった。学生の頃は、直接コミュニケーションをとる機会がなかったので、もっぱらテキストを読んで考えるだけだった。ソロモン諸島のフィールドワークをもとにしたコモンズ論、宇井純さんや鶴見良行さんなどの影響を受け継ぐ市民調査論などを読んで、興奮していた頃を懐かしく感じる。
しかし今は、研究のプロセスを知る機会があるので、書かれている内容に驚くことは少ない。これまでの宮内さんの研究をフォローしてきたので、私にとっては読み飛ばせるところが多く、読み終えるのに時間はかからなかった。5年かけて執筆された力作なのに、生産する時間に比べると消費してしまう時間はあっという間だ。なんだか申し訳なく感じた。
ただし、本書が読みやすいからといって、内容が薄いとか、易しいというわけではない。このテーマについて考える上で大事なポイントが的確に記述されている。一つひとつの論点は、考え始めると相当の時間を要するものばかりだ。深く思考をめぐらせようとするならば、別のテキストに当たって、さらに学習することが求められよう。実際、本書では入門書ゆえの限界を補うために、最後に「この本のテーマについて、もっと知りたい人のために」として、十数冊の本が推薦されている。
このような本書の性格を考えると、大学のゼミで用いる基本テキストに適しているだろう。前から順に読んでいき、各回、関連する文献も取り上げ、教員が情報を補足したり、敷衍したりしながら、少人数で議論するという光景が想像できる。

さて、本書を書いた宮内さんのねらいは、自然再生、環境保全、まちづくりなどを考えるのに、理工系の学問が偏重されている現状に対して、社会学的な考え方を説明し、その効用を簡潔に伝えることにあると思う。したがって、これまで宮内さんが書かれたものを読んできた私などは、届けたい読者層でないけれど、私はとても刺激を受けた。社会に情報を発信するために新書を出すという実践に対して、これは素晴らしい挑戦だと思われたからである。

宮内さんがfecebookに書かれた説明によれば、本書は「渾身の一冊です。この10数年、仲間たちと一緒に考えてきたことを、ぎゅっと一冊に詰め込みました」とある。自信のほどがうかがえるが、私は宮内さんがこう述べているというよりも、何かが宮内さんにこう言わせているように感じられる。
その何かとはなんだろうか。私は勝手に2つのことを想像してみた。
1つは、この10数年間の研究の蓄積である。宮内さんは、少しずつテーマを変えながら、数年間に及ぶ科研の研究プロジェクトをリードし、『コモンズをささえるしくみ―レジティマシーの環境社会学』『半栽培の環境社会学―これからの人と自然』『なぜ環境保全はうまくいかないのか―現場から考える「順応的ガバナンス」の可能性』『どうすれば環境保全はうまくいくのか―現場から考える「順応的ガバナンス」の進め方』と、読みやすい本のかたちで研究成果を出し続けている。この間、研究チームとの濃密な議論があっただろうから、自分だけの研究成果であれば言えなかったことも、自信を持って言えるのではないか。これは、かなり確かなことだろう。
もう1つは、環境社会学的な研究を続けるなかで直面してきた課題に対して、これを乗り越えようとする使命感だと思われる。この乗り越えるべき課題とは、環境(問題)を扱うのは自然科学であるという社会の常識である。もう少し深めていくと、環境を扱うのにふさわしい方法は、自然科学的なアプローチであるという科学観である。
環境社会学が得意とするフィールドワークに基づくアプローチの特徴は、社会内部から環境がどのように認識されているか、その意味について理解しようとすることにある。これは、社会外部から環境にアプローチする自然科学や主流派の経済学などとは異なるが、同様に意味のある方法であろう(この点についての詳細は、「第72回 自著を語る」で紹介した拙論「生物多様性・里山の研究動向から考える人間-自然系の環境社会学」「地域主体の生物多様性保全」(『シリーズ環境政策の新地平 4 生物多様性を保全する』所収)を参照していただきたい)。しかし、この認識のズレによる環境科学間のコミュニケーション不全は、文理融合、総合科学化を進めてきた環境分野でも、あまり改善されていない。
宮内さんは、こうした問題意識を抱えつつ、理工系の学問を批判するのではなく対話を促すために、プラットフォームとなる新書を刊行されたのだと思う。このような実践が必要であることは、しばしば環境社会学者の間で言われてきたけれども、これまで社会にインパクトを与えられる仕事は非常に少なかった。そういう意味では、かなり画期的な仕事だと思うので、ぜひ多くの人びとに読まれることを願う。

もう少し、本の内容に入ろう。
ここでは、半栽培、および「聞く」ことについてコメントする。

まずは、半栽培から。
自然とは何だろうかと問い、これを考えるために、中尾佐助の「半栽培」という概念が導入されている。宮内さんによれば、半栽培には3つあるという。そして、栽培化のプロセスの途上、生息環境の改変、人間の認識の変化と説明されている。この整理は面白いと思うが、自然とは何だろうかという問いに対して、半栽培の概念が補助線として機能しているかどうかは疑問である。宮内さんがこの言葉によって表したいことと、一般にこの言葉から感じられるイメージとの間にはギャップが大きいと思われるからだ。
『よくわかる環境社会学』というテキストで宮内さんは、「田んぼは自然か人工か?」と、きわめて分かりやすく問題を設定している。この問いにより、一般に自然と思われているものが人工的で、人の影響が大きいことをあぶり出し、再考を促すことに成功している。
もし私がこの部分を書くならば、半栽培という概念を使いこなす自信がないので、自然-人工の二分法を超える文化的自然のような見方を提示するだろう。そして、この見方を具体的に説明するために、里山という概念を取り上げたに違いない。そのうえで、自然を守るといっても、その対象となる自然は人の影響を免れない文化的なものであること、また、守るためには知識や技術という文化を守ることも必要であると書いただろう(本書では、半栽培の後に、伝統的知識について言及しているので、言いたいことは変わらないのだが)。
また、半栽培を補助線としながら、自然-人工の幅の広さに注目する意義として、合意形成の可能性を広げられることも挙げられよう。本書では、自然とは何かという議論の後に、コモンズ論、合意形成論と続くのであるが、論理的な流れからすると、自然と人間の相互作用を説明してから、合意が可能かを議論するという方法もあるだろう。
そういう意味では、コモンズ論と合意形成論との接続について、論理的に書くこともできそうだ。一般に、土地や資源を所有するとは、これを自由に利用・処分できると素朴に考えられがちである。しかし、現実の社会では、所有と利用を分けてルールができていることが少なくない。こうした実態を踏まえると、土地や資源をどう持続的に守り、利用できるのかについて、さまざまな仕組みを考えることができる。コモンズ論を参照することにより、合意形成の可能性を広げられることについて、もっとアクセントを置いて書くこともできるだろう。
なお、ここで示した書き方は、宮内さんの仕事をもとに、論理性を突き詰めてこうと仮定したときのものであって、こうすれば良くなるという提案ではない。私だったら、こんなふうに書くかなと空想してみただけのことで、すなわちそれは、自分が書くべきことを自覚させられたということでもある。本書の魅力は、論理的な説明に傾きすぎることを避け、微妙で絶妙なバランスを取っているところにある。各章の始まりには、北上川河口の人びとによる印象的な語りが挿入されるなどの工夫が見られ、ルポルタージュ好きな宮内さんらしくて素敵だなぁと思う。

つぎに「聞く」である。
わざわざカッコ書きにしているのは、「聞く」ことが能動的な行為であることを強調するためであろう。そして、このシンプルな方法の重要性を理解することが、環境社会学的な考え方にとって大事であると述べたいのであろう。
環境社会学では、人びとがどのように周りの自然と関わっているかを内在的に理解しようとして、しばしば地域住民に自然体験や生活について「聞く」。そうした情報は、多くの人にとって調査者に語るべきとも思っていないので、「聞かないとわからない。聞かないと消えてしまう」ものである。
しかし、「聞く」必要があると考えていなければ、そもそも聞けない。だから、宮内さんは(社会学的)感受性をみがくのが重要だと言う。このあたりは、環境社会学者らしいところだが、大事なことを簡潔に伝えていると感じた。
宮内さんは、社会学的感受性を3つから説明しているが、うまくまとめられていると思ったので、ここに紹介しておく。
第一は、現場の事実、生活者の「意味世界」を重視し、そのリアリティから物事を見ようとする姿勢。第二は、社会のダイナミズムや多元性への想像力。第三は、「フレーミング(枠組み形成)への意識。
これらを深く理解するのは、相当に難しい。さらに、「聞くこと自体が共同認識の構築であり、新しい物語の創造であり、そして合意形成のプロセスでもある」という一文などは、ほんとうに理解するには、実践の経験を要するような深い内容を含んでいる。

最後に、タイトルについて。
「歩く、見る、聞く」は、宮本常一による月刊誌『あるくみるきく』(日本観光文化研究所発行、1967~1988年)は意識したものだろう。しかし、そのことはどこにも書かれていない。本書では、「聞く」の意味を深く掘り下げているのに比べて、「歩く」「見る」という方法についてはあまり書かれていない。きっと、「歩く、見る、聞く」とは、フィールドワークという方法によって、「人びと」の意味世界に分け入っていくことの重要性を意味しているのだろう。
一方、「人びとの自然再生」については、結語で触れられている。すなわち、「『人びとの自然再生』は、だから、人びとによる、自然にかかわる多様ないとなみを再構築するということでもあり、また、「人びとの自然」を取り戻す、ということでもある」と。つまり、人びとの・自然再生であり、人びとの自然・再生でもあるわけだ。
一読してピンと来るわけではないが、このタイトルで表現したいことにはとても共感する。

コンパクトな新書だが、実に盛りだくさんの内容である。
環境社会学を専門としていない人に強く勧めたい。
本書は読んでおしまいとするのではなく、読んだうえで対話を始めるといいだろう。

(松村正治)

雨の日も里山三昧