寄り道61 認知症患者家族の当事者研究

2023.4.1
雨の日も里山三昧

先月、私の母は山梨の病院を出て、自宅から車で40分の距離にある病院へ転院した。
コロナ禍で、しかも移動に県をまたぐことから、長らく面会が許されない状況だったが、いまは週に1回会いに行けるようになった。少し気が楽になった。
弱っていく妹を心配していた伯母も、山梨までは通えなかったけれど、いまは車を20分走らせれば面会できる。私以上に伯母にとって、この転院は良かったと思う。
そこで、この機会に認知症患者の家族として、これまでのことを当事者の視点からふりかえっておく。

2005年、母は60代半ばで山梨県身延町に移住した。
2014年、パートナーに先立たれ、それから急激に気力を失っていった。
納骨の時、自分がどこに車を駐めたのか忘れてまごついていたとき、「頼りないなぁ、しっかりしなよ」と思ったけれど、その頃には認知機能がはっきりと衰えていたのだろう。
しかし当時は、忘れ物が多い性格が現れただけだと軽く受けとめていた。
一方、伯母は母の気落ちした様子を放っておけず、毎週山梨へ出かけ、3-4日泊まり込んで寄り添い続けた。
2016年、アルツハイマー型認知症の初期と診断され、通院するようになった。
2019年、要介護1と認定された。以降、訪問ヘルパーとデイサービスの利用が次第に拡大していった。

「認知症は死に至る病」という認識から、母のライフヒストリーをもとに「死にゆく愛する人へ」(2019.7.19)という文章を書いた。
また、母とのやりとりや母を思い考えたことを、「年末年始」(2020.1.6)、「認知症の母が生きる世界」(2020.4.17)、「ケアすること/されること」(2020.12.1)などに書いた。
2021年1月、「緩慢に進み、突然終わる」(2021.1.6)のとおり、早朝雪の中をさまよい歩き、転倒して骨折、緊急搬送で入院して、自宅でのひとり暮らしは終わった。
2月、治療を終えて介護老人保健施設(ケアホーム)へ入所。
5月、いくつか調べたり見学したりした中で第一希望だったグループホームに入居。
とても居心地が良さそうな空間で、食事も家庭的で美味しそうだったので、安住の地にたどりつけたような気持ちになって、ほっと一安心できた。
入居当初は強い介護抵抗を示したものの、スタッフの方々が母らしく過ごせる環境づくりに努めてくださり、家族に報告されない大変なことがたくさんあったと想像できるが、なんとか落ち着くようになっていった。

しかし、その期間は長く続かなかった。
2022年夏が終わる頃から不穏な症状が強まり、自分が殺されるのではないかという幻聴や妄想がひどくなり、夜間に逃げ出して警察に保護されることもあった。
さらに、スタッフの方々や同居利用者への暴力行為も見られるようになったことから、10月に精神科病院に医療保護(強制)入院となった。
グループホームから移送するとき、直前まで寝ていた母を強引に車へ押し込み、抵抗する母の相手はスタッフの方に任せて私はハンドルを握った。
自分が運転して、嫌がる母を無理に病院へと送る。
誰が悪いわけでもないのに、私は気の進まないことを担わざるをえない。
それも家族というものなのだろう。
入院手続きを取っている間、母は病院スタッフに激しく抵抗したらしく、知らぬうちに動けないように車椅子テーブルに拘束されていた。
その状況を家族に見せまいと思ったのか、スタッフに退室を促された私は、母に別れの挨拶もできないままに病院をあとにした。

グループホームでは、入居者の身体を拘束しなかった。
異食や弄便が見られると、そのような行為が起こらないように様子を見守り、先回りして声掛けしたり、適当な行為を促したりする。
認知症患者がその人らしく過ごせるようにするには、一人ひとりの行動を観察して適切に対応しなければならず、相応のスタッフの数とスキルが必要になる。
試行錯誤を繰り返しながら、その人ごとにケアのあり方を考えて実践する。
ところが、そうした対応だけで済ませることが難しくなり、拘束しないことには同居者への危害も懸念されるようになったから、強制入院の運びとなったのだ。
精神科病院で私は、身体拘束があり得ることを説明され、事務的に同意した。
だから、母への処置は手続き的には、まったく問題がない。
適切な手続きが取られ、私はそのすべてを承認し、母をこの世界から排除していった。

強制入院の理由は、同居者に危害を与えるリスクを考慮してのことであった。
薬の服用によって暴力行為が抑えられるようになれば、グループホームに帰したいと考えていた。
入院後しばらくすると、当初の激しい介護抵抗が次第に減少していると説明を受けたので、そうなるようにと願った。
しかし、グループホームではトイレで用を足すことがほぼできていたのに、入院するとすぐに失禁状態となり、また不潔行動も見られたことから、つなぎ服を着用することになった。
その状態のままではグループホームに帰ることができないので、つなぎを外して生活できるかどうかを評価していただくことになったが、今度は夜に同室者のベッドに潜り込んで、寝ていた患者さんに暴力をふるったと連絡が入った。
その報せを受けたとき、もうグループホームには戻れないと観念した。
母は縛り付けておかないと生きていけないのだ。
他に方法はないものかと考えたけれど、何もなかった。

母が一人暮らしをしていたとき、つまり、まだ食事や排泄をほぼ自力でこなしていたとき、配食やデイサービスが休みになる年末年始に、数日間一緒にいたときがあった。
その段階でさえ、目を離すとケガをしたり危険なことをしたりするので、目を離すことができず、夜は家中を動き回って話しかけてくるので眠ることができなかった。
そのときあらためて、同じ空間で私と母が生きることは両立できないと覚った。
私自身は母の世話を医療・介護のエッセンシャルワーカーの方々に任せ、ひどい暴力を受けたり、不潔行為の後始末をしたりしていない。
ただ、やるせない気持ちを抱え、その鉛のような気持ちが重たくなるばかりだった。
病院から届く報せは、心拍数を上げる内容がほとんどだった。
主治医から経過の説明を受けに病院まで行けば、望みはかなえられず、落胆させられた。
何も良いことがなかった。

グループホームにいたときは、毎日家庭で食べるような食事をとり、スタッフの見守りがあればトイレにも行くことができたし、身体は自由に動かすことができた。
それが可能だったのは、グループホームではスタッフの方々が、母らしさを尊重して丁寧にケアしてくださったからに違いない。
そのかたわら、家族宛てには報告されなかった諸問題も数多くあったと想像される。
それでも、入院するとすぐに、自分でトイレに行くことができなくなり、つなぎ服も外せなくなった。
歩くのもかなり難しくなり、転倒予防という観点もあって車椅子で過ごすようになった。

グループホームには、当然のことながら、部屋が空くのを待っている方々がいる。
このため、3ヶ月間は部屋を空けたままにできるけれど、それ以上入院が長引けば退居せざるをえない決まりだった。
昨年12月、そのリミットを迎え、グループホームを出ることが決まった。
入居中にトイレがうまくできなかったり、弄便したりして汚した部屋をきれいにするため、床の張り替え工事が必要になり、月額利用料の約3倍の修繕費を請求された。
これも認知症の周辺症状に伴うもので、母が悪いわけではない。
それでも、次の入居者を迎え入れるためにグループホームには費用が発生し、その請求先は修繕の原因を作った母に向けられるから、支払わざるをえなかった。

年末年始、急に高熱を出して食事が摂れなくなったり、院内感染によりコロナのPCR検査で陽性になったりして、心配事が重なった。
抗精神病薬は一時服用していたが、暴力行為が減って中止となった。
精神科としても手の打ちようがない状態になった。

身体拘束が必要な状況では、またグループホームに入居することはできないし、特別養護老人ホームへの入居も考えにくい。
しかし、退院できる予定が立たないまま、ただ病院に入れておいてよいのだろうか。
そもそも、長く続くコロナ禍のために、2021年1月の骨折による入院以来、リモートや扉越しでしか面会が許可されない状況が続いており、身体に触れることのできるのは入退院・入退居のときに限られていた。
母の様子については、すべて医療・看護のスタッフから説明を受けるだけで、自分で見て感じる機会は乏しかった。
そこで、山梨の病院に入院させておくよりも近くの病院に移れないかと考え、この3月に転院することになったのである。

母を山梨の病院から車に乗せて、妻と弟と一緒に都内の病院に連れて来る最中、母は聞こえるか聞こえないかの小声で独り言をつぶやいていた。
ときおり聞き取れる言葉は、「殺される」「嘘つき」。
私たちは誘拐犯のように言われるわけだが、周りにいるのが母の幸せを願う家族だと認知していない母からすると、わけもわからず連れ出されて、どこに行くかもわからないまま車に閉じこめられていることは誘拐そのものである。

病院に入ると、母は身体を触ろうとするスタッフに対して、それを払いのけようと手を出し、足を出した。
そのパンチとキックは、痩せ衰えて歩くのもおぼつかない身体から想像できないスピードとパワーであった。
これまで私は、母が他者に対して明らかに暴力とわかる行為を働く場面を見たことがなかったので、しばらくあっけにとられた。
しかし、殺されるという恐怖を抱えているのだから、自分の身を守るために、自身に降りかかってくるものを瞬時に払いのけようとすることは当然の行為ともいえる。
もちろん、母は私たち家族に対しても殴る蹴る容赦しない。
スタッフの方々に対して謝りたい気持ちになるとともに、母の身体に生きようとする力がまだ随分と残っていることに感心した。

認知症の周辺症状は、個人差が大きいといわれている。
母に現れている症状は、認知症の患者さんにはよく見られるものであるが、かなり重い方だと転院した病院の主治医に説明を受けた。
すると、なぜ母にこのような症状が現れるのだろうと考えてしまう。
その点について伯母と意見を交わしたとき、母の性格が悪い方向に現れているという解釈で一致した。
母は明るい性格ではあるけれど、けっして社交的ではなかった。
自分の中に評価軸を持って、できるだけ人に頼らずに自由に生きる道を選んできた。
母の身になってみれば、見ず知らずの人に干渉されることは嫌だし、まして身体に触れられることなど自らの尊厳にかけて拒絶すべきなのであろう。
また、母は自分自身のために働く人ではなかった。
いつも近しい人のために、そのためであれば人一倍力を尽くした。
母の働きによる恵みをもっとも多く受けたのが、子どもたちであろう。
しかし、子どもたちがそれぞれ家族を持つようになり、パートナーに先立たれたとき、何のために生きるのかが見えなくなったように思われる。
母と意味のある言葉を交わせた最後の頃、母に楽しんでほしいと思って話しかけても、どこにも生きたくないし、食べたいものも特にないと繰り返していた。
だから、現在の母を見ていると、とても母らしいとも感じる。

一方、認知症が進む前までは、母らしさを生かせていたのだろうとも思う。
子育てをしたり仕事をしたりするなかで成長し、自分ときちんと対話して、正直に生きようとしてきたように私の目には映っている。
しかし、時間を重ねて積み上げてきた自信は、もう母の中には見られない。

母の症状を見ながら、私はどのように考えるべきなのか。
自分も認知症を患うかもしれないので、自分一人で生きようと思わず、他者から支援を受けること、ときには他者に身を委ねるようなこともあると想定して、周りの人に対する感謝を忘れないようにしよう。
親しい友人、近しい家族に先立たれるかもしれないので、スポーツでも旅行でもグルメでも何でもいいので、熱中できるものを見つけよう。
一般的に導かれる教訓は、こんなところだろうか。
それぞれ大事なことだし、実際にその通りだと思っている。
けれども、このように母の認知症を反面教師として捉えることは、母の人生を否定するように感じる。
だから私は、母の認知症は母の性格が「悪い」方向に現れているのは間違いないが、それは母の周りの状況にとって「悪い」のであって母にとっては妥当であり、母らしさが存分に現れており、頼もしくもあると捉えている。

母には、この世界に自由に生きる場所が与えられず、母の自由を束縛する際に母らしさが殴る蹴るというかたちで、もっとも発揮されるのだろう。
このように母の現状について解釈したところで、何かマイナスがプラスへと変わるわけでもない。
それでも週に1回面会に行き、そのたびに母の様子を家族や伯母と共有し、ここに書いたようなことを考えたり、思いかえしたりして過ごしていることに、何か意味があるように思うし、そう思いたい。
だから、私は認知症家族の当事者研究として、記録を残す。

(松村正治)

雨の日も里山三昧