第64回 『地域力の再発見』(岩佐礼子)
2015.7.1雨の日も里山三昧
岩佐礼子『地域力の再発見―内発的発展論からの教育再考』(藤原書店、2015年)
最近、いくつか「地域」をキーワードにした企画にかかわったので、
今回のコラムでは、「地域」について考えていることを記しておきたい。
まずは、この1ヶ月ほどの間にかかわった「地域」がらみの企画を3つ挙げる。
(1) 大学の所属学科で、シンポジウム「地域の力×若者の力による
豊かさの創造」を企画、コーディネーターを務めた(→前回コラム)。
(2) 環境社会学会で、表題の書籍を取り上げた書評セッションを企画、
本書に対して短くコメントを述べた。
(3) NPO法人アジア太平洋資料センター(PARC)の
http://www.parc-jp.org/
ニューエコノミクス研究会に参加し、『地域に希望あり』(岩波新書、2015年)を
上梓されたばかりの大江正章さん(コモンズ代表)のお話をうかがった。
(研究会の代表は、セルジュ・ラトゥーシュ『経済成長なき社会発展は可能か?』
(作品社、2010年)の訳者・中野佳裕さん)
(1)と(3)の企画の背景には、「増田レポート」(2014年)に代表される主張、
すなわち、地方消滅を煽りつつ、地方中核都市への集中と選択を促す物言いに対し、
きちんと批判しておきたいという意図があった。
このため、近年の若者の田園回帰現象なども踏まえ、
地域づくりの現場で実際に起こっている事例をもとに批判を企てた。
そして、経済成長だけを重視するのではない地域社会の発展のあり方や、
地域にある「豊かさ」の再評価がテーマとなった。
地域をあらためて見直し、それぞれの個性や特長を重視する考え方は、
一般に地域主義(ローカリズム)と言われる。
これは、中央集権によって画一的に伸展していく都市化、
市場のグローバル化にあらがう反作用として起こる考え方である。
日本の地域主義は、高度成長とともに公害や人権侵害等が大きな社会問題となり、
近代への反省が迫れられた1970年代に盛り上がりを見せた。
しかし、1980年代からしばらく地域主義の動きは沈静化していた。
この間、丁寧な地域づくりに取り組んできたところもあったが、
つねに中心的な課題は経済の成長力を高めるかであり、
規制緩和、選択と集中、グローバル化などにより、
市場のメカニズムをいかに効率よく作動させられるかに力点が置かれていた。
それが、2000年代に入る頃から、特に2008年のリーマン・ショック以降は、
あらためて経済成長のみを優先する社会のあり方を見つめ直し、
各地域の足もとにある資源、そして豊かさを見直す動きが目立つようになってきた。
たとえば、出版社の農文協は、この新しい地域主義の動きに棹さすように、
2009年から『シリーズ地域の再生』(全21巻)を刊行し、
2010年に季刊雑誌『増刊現代農業』の名称を『季刊地域』へと変えた。
地域主義の再興には、市場と国家からの影響を一定程度に抑え、
自律的な地域社会をつくっていきたいという人間的な願いがあるように思われる。
バブル景気以降の長い不況とリーマン・ショック、
さらに2011年の福島原発事故などを経て、
人びとは目覚ましい経済発展に期待するのではなく、
ささやかな幸せ、人間らしい生き方を求めるような傾向が強まったのではないか。
私が大学で向き合っている多くの学生たちも、
経済成長に費やす労力を上回る幸せが得られるわけではないと感じている。
むしろ、現状を脱するために過剰な変革を求めると無理がたたって、
人間関係に歪みが生じたり、心や体を壊してしまったりすることを感じているようだ。
だから、都会で無理して働くくらいならば、別のことをしようと考える者も少なくない。
なかには、NPOで働いたり、地域おこし協力隊として地方で働いたり、就農する者もいる。
少なくとも私の周りでは、こうした働き方が珍しくはなくなっている。
「地域」に興味・関心があり、地方に飛び込もうとする若者がいれば、応援したい。
しかし、だからといって、東京一極集中はダメで、
地方にこそ夢や希望があると勧める気持ちにはなれない。
(もし、そう断言できるならば、自分が率先して実践してみせているだろう)
その理由は2つある。
1つは、人によっては都会で幸せを見つけるだろうし、
都会でないと見つけられない人もいるというと当然の理由からである。
もう1つの理由は、都会のなかにも地域的なつながりは見いだせると
思っているからである。
地方と都会を二分して、どちらが良い悪いと単純に判定するのは、
社会の実態を粗く見ている証しだろう。
一方で、都会では自分らしい生き方を見つけられないという人はいる。
そういう人は、地域の資源が相対的に見えやすい地方において、
力を十分に発揮できることがあるだろう。
狭いと言われる日本にも、さまざまな地域があり、
それぞれ固有の資源があり、その資源に力がある。
ここで資源とは、人であり、自然であり、文化であり、
人が豊かに生きるために、活かせるすべてである。
しかし、こうした地域資源も、中央(東京)ばかりを向いていると大切にされず、
時の経過とともに、損なわれたり、失われたりしてしまう。
そうした地域資源の消失がもっとも典型的に表れている場が里山であろう。
多くの里山では、多様な自然が消えていき、人と自然のかかわりが消え、
自然をめぐる人と人のかかわりも消えていっている。
このような現状を踏まえると、今、地域の資源を見直し、
現代的に生かせるかどうかを考えることは重要である。
そして、高度成長期に大きく地域社会のあり方が変容したことを思えば、
この作業はかなり急いでおこなう必要があるだろう。
(2)の書評セッションを企画したのは、こうした問題意識からであった。
表題の本書は、地域のなかで人が自然とかかわり、
人が人と関わるなかで人間的に成長することに光を当てている。
さらに、その個人的な成長が社会的にも広がり、
地域社会が内発的に発展していく力となることを評価することで、
地域に内在する教育力を積極的に捉え直している。
著者が捉える地域の潜在的な力は、たしかに大きいと思う。
しかし、私は前にコラムで紹介した哲学者の内山節の
問いが気になっている。
内山は、伝統的な地域共同体とは、長い年月をかけて人と自然、
人と人の関係が培われてきた「自然と人の共同体」であると捉えている。
そして、これからの関係のゆくえについて考えをめぐらせ、
「はたして人間には関係をつくることができるのか」と問い、
「関係は生まれていくものであって、
つくれるものではないかのかもしれない」と述べている。
この問いは切実である。
著者のいうとおり、地域には再発見・再評価すべき資源があり、
人が成長できる力があると私も思う。
しかし、その力は着実に弱まっていると感じている。
それでは、その力を今から強めることができるのだろうか。
手をこまねいていては無理だろう。
だから、小さくても良いので、多くの地域で、
地域の力を再発見し、それを守る実践が必要なのだと思う。
NORAの活動も、そうした実践に連なるものである。
NORAは、よこはまという都市に生活する側の視点を重視しているが、
都市と地方を別々に考えていてはいけない。
両者をともに視野におさめながら、
地域を守る――地域の人と自然、人と人の関係を守る
ということを活動の軸にしていきたい。
(松村正治)