寄り道37 里山保全運動

2019.2.1
雨の日も里山三昧

森林系の百科事典の項目の1つとして、「里山保全運動」について執筆するよう依頼された。
編集委員の期待に応えるべく書いたが、最大公約数的な内容ではないし、個人の解釈がかなり入っている。
事典項目を書いたというより、この運動movementにかかわった人びとに献げる詩(うた)を書いた。

里山保全運動

1980年代、里山保全運動は自然保護運動の新しい形として登場した。この運動は、守ろうとする対象、および守るための手法の両面において、従来の自然保護運動とは異なっていた。
1960年代後半、日本では高度経済成長の歪みとして公害や自然破壊が社会問題となり、国民の自然保護・環境保全への関心が高まって、70年代には公害反対や自然保護をめざす運動が広がった。また、それまで近代化を強力に進めてきた中央集権に対する反省から、自分の住む地域を見直す住民意識も高まり、身近な地域の自然や文化を守るために各地で住民団体が結成された。
当時の自然保護運動では、一般的に原生自然を保存することが理想とされ、人間の影響を排除して自然の遷移に任せることがよしとされた。森林を守ろうとする場合も、一本でも樹木を伐採させないように、指一本たりとも触れさせないようにして、開発を食い止めるのが常套手段であった。このため、原生林や鎮守の森を保護する必要性は理解されても、里山が重要な空間であるとは認識されていなかった。

里山という対象

かつての里山は、薪炭林・農用林として管理され、人びとの生活・生業を支えていた。ところが、日本ではおよそ昭和30年代(1955年~64年)に、燃料は薪炭から化石燃料へ、肥料は堆肥から化学肥料へと移りかわり、利用価値を失った里山は、その後管理を放棄され、都市近郊では急速に開発が進んだ。身近な自然であった里山が、自然保護の対象として認識されるようになったのは、こうした質的・量的な変化が顕著になってからである。
自然保護運動のなかで、最初に「里山」という用語を意図的に用いたのは大阪自然環境保全協会とされる。この団体は、大阪南港野鳥園の開設運動を支えた市民が中心となって1976年に設立され、箕面に生息するニホンザルをはじめ、野生動物の保護運動に取りかかった。その実態調査の結果、「里山」と呼ばれる都市近郊の低山帯に多くの野生動物が生息していることが明らかになり、80年代前半から自然保護運動の戦略上「里山」を積極的に用いるようになった。
1980年代後半には、こうした運動に呼応するように里山の学術的な再評価も進んだ。この背景には、生態学のパラダイム転換によって、自然を評価するうえで生物多様性の視点が重視されるようになったことが挙げられる。日本でも、雑木林のような二次的自然は必ずしも原生自然より劣るわけではなく、氷河時代の遺存種を温存してきた貴重な空間であるという見方が示されるなど、里山は固有の価値があり、自然保護の対象として重要であることが認識されるようになった。

保全という手法

定期的な手入れによって維持されてきた里山を保全するには、継続的に人びとが管理することが必要である。しかし、燃料革命・肥料革命以降の里山では、人間による働きかけが希薄になったり途絶えたりしている。たとえ、里山が面的に残されたとしても、管理されなくなれば、植生遷移が進み、生物種によっては生息空間の劣化や減少を招くことがある。実際、2001年の環境省調査によれば、絶滅危惧種が集中して生息する地域の多くは、原生的な自然地域よりむしろ里山地域であることが明らかになっている。
このアンダーユース(過少利用)問題に関連して、1990年代を通して、市民ボランティアが主体的に管理活動に参加する里山保全運動が都市近郊から全国に波及していった。ただし、この運動は核となる全国的な組織が主導したわけではなく、身近な地域の里山を守るために、志のある人びとが各地でみずから汗を流して保全活動に参加した結果、大きなムーブメントになったのである。
この運動の意味を理解するには、里山保全運動の象徴といえる「まいおか水と緑の会」の事例を参照するとよい。この団体は、のちに舞岡公園(横浜市戸塚区)として整備された里山を守るために1983年に結成された。当初の計画では、谷戸を埋め立てて芝生広場にするなど、標準的な都市公園がつくられるはずであったが、この団体は横浜市から公園予定地の使用許可を得て、自分たちの手で休耕田を復元させ、雑木林を管理し、農芸活動や環境学習などを実施した。こうして体験型プログラムを開発し、管理運営のノウハウを蓄積して、その経験をもとに公園計画に代替案を示していった結果、多くの提案が反映されることになった。さらに、1993年の開園後から現在に至るまで、この運動を母体とした市民団体が舞岡公園の管理運営を継続的に担っている。
この事例は、人びとが里山をいかした公園づくりを進めながら、時代に合ったかたちで身近な自然との関係を結び直したものと解釈できる。つまり、里山保全運動とは、人びとが自然に手を入れながらコミュニティをつくる当事者となり、現代のコモンズとも呼びうる「みんなのもの」を主体的につくりだす運動でもあったのである。

環境政策と里山保全運動

1990年代に全国に広がった里山保全運動では、人里に近い森林(里山林)だけを対象とするのではなく、いつしか田畑・ため池・茅場なども含む農村景観全体を指すようになった。この「里の山」から「里と山」への概念の拡張は、かつて人びとが継続的に管理していた二次的自然を一括して呼べる言葉として、ムーブメントの伸展とともに広く受け入れられた。
2000年代に入ると、「新・生物多様性国家戦略」(2002年)のなかで、日本の生物多様性を保全するうえで里山は重要な空間であると位置づけられるなど、環境政策においてもアンダーユース問題が浮上してきた。この課題に対して、全国各地の行政は、里山保全を主体的に取り組むボランティアを養成し、手入れが行き届いていない公有地の管理を進めようとした。しかし、そうした取り組みによって保全される里山は、管理されなくなった広大な里山の面積と比較するとわずかでしかない。さらに、2010年代に差し掛かる頃から、保全活動への参加者の固定化・高齢化が大きな問題となってきた。里山保全のためにボランティアを活用するという政策は、ほとんどうまくいっていない。
1990年代に里山保全運動が広がったのは、従来の自然保護運動と比べて対象としても手法としても斬新で、人間と自然の関係性を主体的に切り拓ける道が示されたことにあっただろう。しかし、その回路が行政によって生物多様性保全という観点からのみ水路づけられ、国を中心とした環境政策のなかに回収されると、市民参加でコモンズを再生させようとする運動のポテンシャルは削がれてしまう。
ここに至って2010年代の里山では、里山資本主義という言葉に象徴されるように、ボランティア活動を推進するのではなく、企業のCSRや環境ビジネスなどと結びつけて仕事をつくろうとする動きが強まった。かたや、新しいコモンズとして里山を現代的にいかすコミュニティづくりの試みは、エコビレッジやトランジション・タウンなどの運動のなかで展開されている。

(松村正治)

雨の日も里山三昧