寄り道27 「まちの近くで里山をいかすシゴトづくり」の理念(ver.1)

2017.5.1
雨の日も里山三昧

昨年から、「まちの近くで里山をいかすシゴトづくり」というプロジェクト名を掲げ、
主として地理的には横浜・多摩地域を念頭に置きながら問題を提起し、
関心のある人、集団、組織とのネットワークづくりを進めてきた。
SNSで情報を発信してみると、予想以上に多くのリアクションが返ってきたし、
イベントには定員いっぱいの参加者が集まり、アンケートの評価も良かったことから、
このプロジェクトに対する関心と期待の高さを感じることができた。

プロジェクト名に込めた意図については、2016年1月のコラムで書いたが、
スタート時点に考えていたことなので、大ざっぱな構想であった。
その後約1年半、動きながら考え、仲間と議論を交わし、
ほかの地域での試みとも比較しているうちに、
このプロジェクトの理念が明確になってきたように思う。

それは、他の取り組みとの違いを意識することではっきりしてきた。
里山資源を活用してシゴトづくりに繋げるというアイデアは、
すでに全国各地で展開されており、珍しいものではない。
しかし、地方創生、地域活性化への後押しを受けて取り組まれている事例と、
このプロジェクトで目ざしているものは、何か質が異なるようだ。
その違いは、現状の課題に対する認識の違いを反映しているように思われる。

私が「まちの近く」にこだわるのは、このエリアの人口が非常に多いことと、
都会と田舎に挟まれて特徴が見出しにくいからである。
ここに、大きな可能性と現代的な課題が現れているように思う。
つまり、何も特別ではなく、希少なわけでもない、おおぜいの凡庸。
特徴のなさという特徴をもつ平均的な現代人。
私も、そうしたまちに住む数百万、数千万人のうちの一人である。

「まちの近くの里山」もまた、何か特別なところというわけでもなく、
気がつけば、身近な存在である。
探せば、美しい景観も残っているが、ひどい場所もある。
格好良い仕事が見られるところもあるが、無様なところもある。
そこに喜びもあるが、悲しみもある。
それも深い悲しみが。
そういう里山を、誰かに評価してもらうのではなく、
他の誰でもない自分が愛する。
いや、愛することが目的ではなくて、
そういう里山にかかわっていると、
おのずと気に掛かる場所となり、気づくと愛している。
そういうプロセスに意味があると思うし、
それならば、おおぜいの凡人でもできる可能性がある。

自分がある里山を愛することによって、世界の見え方が変わる。
実際、こうした認識の転換は、私の身に起こったことである。
そして、この変化は、流動性の高い社会を生きる上での手がかりを与える。
取り替え可能なもので埋め尽くされている現代社会のなかで、
自分の中心に動かない軸のようなものが一本通る。

突き詰めると、私がこのプロジェクトで目ざしているのは、
こうした安寧であるような気がする。
それも、自分一人だけの穏やかな平和ではなくて、
できるだけ多くの、ほかの人や生きものの生命や暮らしとともにある安らぎ。
さらに、シゴトづくりにおいても、競争社会を生き抜くためではなく、
安心して共に暮らせる共生社会をつくるためのものでありたい。

こんな夢物語のようなものに向けて、何を企てるのか。
特別なことはできない。
ただ、おおぜいの人びとの取り組みが創発性を発揮して、
結果的に、それぞれの仕事と暮らしが充実するような、
そのためのテーマを掲げて場を設ける。

いくつかアイデアはあるけれど、凡人ゆえに野暮用で時間がない。
今回のコラムも、このあたりで時間切れ。
いざ書いてみると、頭が整理されていないので、時間ばかりかかる。
あらためて、構成を考え直して、この続きを考えてみたい。

(松村正治)

雨の日も里山三昧