雨の日も里山三昧

寄り道1 子どもながらに見ていた小さな世界

2009.6.1
雨の日も里山三昧

前回のコラムでは、JUONネットワークの鹿住さんとのかかわりに
ふれながら、『割り箸が地域と地球を救う』をご紹介しました。
すると、鹿住さんから次のようなメールが届きました。

  いやー本のご紹介ありがとうございました!
・・・というか、コラム感激しました。

  若干気恥ずかしいですが大変嬉しかったです!
思わずうちのスタッフに「読め!」と(笑)。

いやー、文章を書いて喜んでいただけるのは嬉しいですね。
率直な感想(感嘆!)をお知らせいただき、感謝しています。

さて、前回のコラムでは、
「次回は私が里山保全にかかわろうと思った理由について書きます」
と締めくくりました。
しかし、こう予告したものの、この1ヶ月間考えたところ、
すっきりとした簡単な答えは出せないこと、
自分の中の深いところまで潜っていかないと説明できないことがわかりました。
そこで、本や映像を紹介するというこのコラムの目的を離れて、
子どもの頃の記憶を思い起こしながら、
私が里山保全にかかわるようになった理由を探り出していこうと思います。

私は、物心がついた頃から、
東京の外れにある住宅街に住んでいます。
20代の頃は、都心に近いところに住んだこともありますが、
30年近く同じ所に住んでいます。
「高級住宅地」というイメージがある町で、
たしかに立派な家が建ち並んでいます。
しかし、私はその中にあって、
比較的所得の低い人たちが住む公営住宅で育ちました。

私が少年時代を過ごしたのは昭和40~50年代でしたが、
近所の家々やそこに住む人々の生活は、
映画『三丁目の夕日』に表象されるような昭和30年代のようでした。
もちろん、周りの立派な家々は昭和50~60年代、
もしかしたら平成の暮らしをしていたかもしれません。

子どもの時に住んでいた家は、
炭坑街によく見られる平屋の二軒長屋でした。
どこの家も鍵を掛けることはなく、
勝手口から各家の庭に入り込むことも自由で、
「かくれんぼう」で遊ぶときは、
そういう家や庭で隠れることも許されていました。
逆に言うと、個人の屋敷の中も、
子どもの共有の遊び場になっていたのです。

近所にはガキ大将がいました。
ただし、ジャイアンのように1人勝ちの世界ではなく、
2人の対照的な年長者が私たちのガキ大将でした。
1人は明るくて豪快でスポーツ万能で、
毎日、路地で遊ぶ野球でホームランを打つようなタイプです。
まぶしいほどの明るさを放ち、誰もが引きつけられました。
強面のお父さんがいて、平日の昼間に、
白い下着と短パンで遊び場にやって来て、
私たちに野球を教えてくれるというガキ大将の標準型です。
もう1人は影があって、ぜんそく持ち、
野球で言うとパワーヒッターではなく技巧派で、
誰も打てないようなコースをホームランにしてしまうタイプです。
お母さんがいなくて、お父さんに育てられていたため、
何となく私たちもそのことを気にしていました。
人を引きつけるような明るさを持ち合わせてはいませんでしたが、
その行動や発言には不思議な説得力がありました。

近所に住む私を含めた子どもたちは、
この2人がキャプテンを務めるチームのどちらかに所属して、
毎日飽きずに狭い路地で野球を楽しんでいました。
(「魔法使いサリー」に出てくる3つ子そっくりの3兄弟や、
母子家庭で大きさがでこぼこの3兄弟などが、しっかり脇を固めていました。)
だいたい、7:3くらいの割合で、
スポーツ万能の大将に率いられたチームが勝つのですが、
私にはこの結果に悪くないと感じていました。
結局、強いものが勝つと言ってしまうこともできますが、
私は弱くてもけっこう勝つのだと思ったのです。
また、勝率7割を誇るキャプテンも、
ときどき不機嫌なお父さんに怒鳴りつけられ、
遊び場から強引に連れていかれることがありました。
いつも明るい大将がいなくなった私たちの路地は、
昼間なのに影が差したように生気がなくなり、
お父さんにきつく叱られないだろうかと心配しながら、
バッターボックスに入る苦々しさが思い出されます。

そういうコミュニティだったためでしょうが、
近所には社会の中で力を持てない人が多く住んでいました。
たとえば、身体と知的に障がいのある人がいて、
ときどき、路地をぴょこぴょことはね回っていました。
また、離婚したり、死別したりして、
片方の親が3-4人の子どもを育てている家庭もありました。
そして、そういう障がいのある人や、
片親に育てられていた子どもたちは、
周りからいじめられていました。
ばい菌がうつるという噂が小学校内に広がっていたので、
そうした家の前を通るとき、
私の通っていた学校の児童たちは、
一緒になっていっせいに息を止めて、
駆け足で走り去ったものでした。

私も、同級生から唐突に「ぼろ家!」と言われたことがあります。
実際、築年数が古いために、あちこちからすきま風が入り、
毎年、アリや羽アリが大発生する木造の住宅でした。
また、当時、すでに水洗便所が当たり前だった時代に、
くみ取り式の便所でしたから、
そのようにからかわれる理由はあったのです。
もちろん、道徳的には許されない言い方だったので、
そのように言われて口惜しく、また腹を立てたのですが、
同時に私は、なぜそんなことを言い出すのだろうと、
どこか冷めながら、彼の心の中にある刺々しさを気にしていました。

こういう環境に育ったせいか、私は子どもの頃から、
世の中の多くの人の言っていることややっていることは
けっこう間違っているものだという感覚がありました。
でも、子どものときは、同級生らと一緒に、
先ほどの障がいを持っている人をからかったりしたこともありました。
そんなに強くて芯のある子どもではありませんでした。
そのときには、自分が住むコミュニティの仲間の側に
立てなかった悔しさが残りました。
小学4年生のことでした。

小学3年生くらいまでの世界は狭く、
その中での遊び、濃密な人間関係が楽しかったのですが、
中高学年になるにつれて、世界が広くなるにつれて、
だんだんと無邪気ではいられなくなってきました。
近所のガキ大将2人は中学校に入り、
スポーツ万能の彼は、ぐれていきました。
近所では私たちの大将であっても、
一歩外側の社会では認められなかったのでしょう。
そして、もう1人の大将は、
遠くへ引っ越してしまいました。

早く大人になりたいと思っていました。
ここから出て行き、自由になりたいと思っていました。

たまたま、小学4年生のとき、
生意気で頭の良い女の子が転入してきました。
今から考えるとほほえましく感じられるのですが、
私はその子に対してライバル心を燃やし、
親にせがんで塾に通うことにしました。
その子が中学入試に向けた勉強をしていると聞いて、
後先のことは考えず、受験勉強を始めたのです。
勉強をしているときは、近所のもろもろや家庭内の不和などを
忘れることができて、気が楽になりました。
そういうことから逃げるのに勉強は好都合でした。

しかし、小学6年のとき、
その子はどこかへ引っ越してしまいました。
張り合う相手がいなくなり、私は置き去りにされたような感じでした。
前年に父の会社が倒産したこともあり、
私立中学に行ける家計状況ではないことは承知していました。
でも、親からは「お金のことは心配しなくていい」と言われ、
学校の先生など周りからの勧めもあって、
私立中学を受験しました。

通勤電車に乗って、都心に通うようになりました。
80年代の甘ったるいポップ感覚に漂いながら中学・高校と過ごし、
大学に入ると、今・ここに賭ける小劇場の世界に浸かり、
10年以上、私は地元を振り返ることがほとんどありませんでした…。
まだまだ長くなりそうなので、今回はこの辺りでやめておきます。
里山とのかかわりについて書く段階までいきませんでした。
宿題は、さらに持ち越します。

(松村正治)

雨の日も里山三昧