都心で水車を回して鉛筆づくり
2009.6.9ひねもす里山/NORA雑感
今日は、学生時代の友人が開いている設計事務所を訪ねました。
最近は、ほとんど都心へ出ることがなくなっているので、
高層ビルが建ち並び、車がビュンビュン行き交う都会を歩くのは、
けっこう力が要るなと思ってしまいます。
しかし、その事務所が位置する町は、新宿御苑のすぐそばにあり、
外苑西通りを一本折れると、狭い路地に古くからの住宅が並び、
地域コミュニティが健在であることを感じさせます。
待ち合わせの時間よりも30分ほど早く着いたので、
少し散歩してみることにしました。
小さなコミュニティの中心に、多武峰(とうのみね)内藤神社がありました。
新宿御苑は、江戸時代には信州高遠藩主の内藤家の屋敷地であり、
この神社は内藤家の屋敷神だったそうです。
境内に入ると「駿馬塚」があり、次のように説明がありました。
内藤清成の駿馬にかかわる伝説の石碑である。 徳川家康は江戸入府後、家臣の内藤清成を呼び、現在の新宿御苑一帯を示し「馬で一息に回れるだけの土地を与える」と語ったという。 清成の乗った駿馬は、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、疲れ果て死んでしまったので、大樫の下に埋めたと伝えられる。
古い町には歴史があり、伝説があります。
高度に開発された都会であっても、過去をさかのぼってみると、
人が自然に圧力を加えていった過程をなぞることができます。
人と自然の関係性を考えるとき、
私はこうした先人たちの動きを理解することが大切だと思っています。
もう1つ三菱鉛筆によって寄贈された看板がありました。
そこには、次のように書かれていました。
この地(多武峰内藤神社西方付近)は、明治二十年(一八八七年)に佐賀藩出身の眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。三十年後の大正五年(一九一六年)に品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。 創業時は玉川上水の分水であり、現在は安居となっている渋谷川を利用した水車を動力にして、ここで鉛筆が作られていました。
新宿で水車を動力に鉛筆を作っていたなんて!
ワクワクしてしまいました。
新宿御苑にある玉藻池は、渋谷川の源流の1つであるようです。
ちなみに、渋谷は渋谷川によって削られた谷であり、
「春の小川はさらさら行くよ」から始まる童謡「春の小川」は、
かつての渋谷川の情景をうたったものです。
現在、渋谷川に春の小川をとりもどそうという活動があります。
※渋谷川ルネサンス
http://www.shibuyagawa.net/
※渋谷川・古川流域「学び」のネットワーク
http://www.osekkaiz.com/manabinonetwork/
(M_M)