第139回 釜飯仲間・おこげのお話

2020.7.30
神奈川・緑の劇場

「釜飯仲間」=おこげのお話=
国連「家族農業の10年 2019年~2028年」
そして新型コロナウイルス災禍の中で

「神奈川県内・生産者限定の野菜市」を始めて16年目。その前提、土台として、多くの生産者の皆さんと出会い、彼らの農産物を利用し交流してきた人々と繋がることが出来た(有)神奈川農畜産物供給センターに入職して33年が過ぎた。(2004年退職)

今回、7月30日(木)をもって、鎌倉市玉縄の野菜市を終了する。10年以上に渡って場所を提供して下さった「むつ美容室」の閉店にともなうことだ。過去を振り返れば、7月30日は1978年、沖縄で、日本への返還前のなごりで自動車の右側通行が左側通行に変更された日だった。日付が変わる瞬間を、私たちは沖縄県石垣島で立ち会った。

私たちとは、当時所属していた「劇団展望(東京都杉並区阿佐ヶ谷)」の一員として滞在していたのだ。波照間島出身の劇団員、K氏の創作劇をもとに、集団創作劇として作った「離り島風土記(ぱなりしまふどき)」。その上演に至る一年以上の過程で、教えを乞い交流を重ねた東京・八重山文化研究会のメンバーが、上演後、幾人も石垣島に戻っていた。その中には、現在も活躍され、名前を知られた方々もいる。

彼等から、「滞在費は持つから石垣島に来い。」と言われて、劇団主宰の大沢郁夫・林陽子夫妻を東京に残して石垣島と西表島を訪ねていたのだ。我々が持っていける「お土産」は、芝居しかない。当時、劇団員による創作劇づくりを本格化していた私たちは、真夏の石垣島で真冬の新潟・津南の農民たちが囲炉裏を囲んで話し合う、ドテラを着込んだ芝居を上演したのだ。(芝居の筋とは関係の無いところで、大いに受けたことは間違いない。)

石垣島での経験は、24歳の私の中に、島に移住したくなる気持ちを沸き上がらせた。気心の知れた人たちも、すでに何人も暮らしている。だが、彼らはなぜ島に戻ったのだろうか?彼らが根を張って生きていこうとする石垣島は、私にとってどういう場所なのだろう?

転勤の多い父のもと転校を重ねて育った私。経済発展の最先端、巨大工場地帯で働く父ではあったが、汚染と破壊にまみれた環境で育った私。今にして思えば、少年時代から、土地に根付き自然とともに暮らす農業へのあこがれは生まれていた。

私は、自分が根付く場所をどこに求めるのか?「え!?神奈川!?」「汚染と破壊、混濁の神奈川!?」(当時は環境破壊の最も酷い時代)すでに劇団活動を通して、少しずつ世の中を知り始めていた私の気持ちはなぜか、石垣島と対置して神奈川を選択したのだ。

「むつ美容室」を始め、野菜市を支えて下さる多くの皆さん。今につながる多くの人々の手によって支えられ続けていることを思う。特に、あえて「神奈川の生産者限定」を旗印に掲げたことが、生産者の皆さんも含めた多くの皆さんの思いをいただくことができたのだと思う。

 私たちを取りまく状況、時代の行く末は大変な困難が予想されている。食をめぐる問題も、いよいよ深刻さが現実となって目の前にある。だが、生産者の皆さんは、だからといって右往左往はしない。大災害がいつ襲ってきてもおかしくない時代に入って、土地から逃れることはない。私も、そうありたいと思う。

  (2020年7月30日記 三好豊)